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「名言との対話」10月11日。秋野不矩「作家は自分の創作を期して、表現にいどみ一生を過ごすのが、使命でありそれが本望である」

秋野 不矩(あきの ふく、1908年(明治41年)7月25日 - 2001年(平成13年)10月11日)は、静岡県出身の日本画家。

19歳で石井林響、次いで西山翠嶂に師事する。28歳、1936年文展鑑査展で選奨を受賞するなど、早くから官展で実績を積み重ね、画家としての地歩を固めた。戦後間もなく、新しい日本画の創造を目指して「創造美術」(現:創画会)の結成に参加すると、官展時代の作風から脱却し、西洋絵画の特質を取り入れるなどして、人物画に新境地を開いた。東京の山本丘人、京都の上村松皇らと「在野精神を尊重し、自由と独立をかかげ、真に世界性に立脚する新しい日本画」をめざしたのだ。秋野は日本画家沢宏靱との間に6人の子を儲けている。

京都市立美術専門学校(現京都市立芸術大学)において後進の指導に当り、助教授・教授職を25年勤続して定年まで勤めた。35歳で夭折した三橋 節子は、教え子だ。

50歳で離婚し、4年後に赴任したインドの風景に魅せられ、以後インドを主題にした作品で新しい境地を開拓する。そして定年後には、長期のインド滞在を重ねる。その歳月を記した素敵な装丁の『画文集 バウルの歌』を読んだ。84歳のときの著書である。

故郷の浜松市に秋野不矩美術館がある。そこには秋野不矩の次のような言葉がかかっている。「絵を描きつづけて八十余年 それでもまだ満足のいく作品が描けないのが現実だが、私もそれ故に生きてゆく甲斐があるというものであらう絵とは何であらうか。作家は自分の創作を期して、表現にいどみ一生を過ごすのが、使命でありそれが本望である」。その言葉どおり、世界性に立脚する新しい日本画の世界をつくりだした。その評価が91歳での文化勲章を受章である。享年93。

「創造美術」において、画家としての自らの使命を自覚した。それは秋野不矩の40歳の時のことだった。まさに四十にして立ったのだ。それから、50年以上創作の道を歩んだことは本望であっただろう。

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