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「名言との対話」4月26日。飯田蛇笏「誰彼もあらず一天自尊の秋」
飯田 蛇笏(いいだ だこつ、1885年(明治18年)4月26日- 1962年(昭和37年)10月3日)は、山梨県出身の俳人。享年77。
早稲田大学英文科に学ぶ。「文庫」「新聲」に詩を投じた。22歳、在学中に早稲田吟社を結成し活躍。24歳、高浜虚子門下に入り、師事する。25歳で郷里山梨県境川村に帰農し、「土の俳人」を志す。虚子の俳壇復帰とともに句作を再開、「ホトトギス」の中心作家となる。俳誌「雲母」を主宰。山村で暮らしつつ格調のたかい作風を展開した。村上鬼城などとともに大正時代における「ホトトギス」隆盛期の代表作家として活躍した。俳誌「雲母」を主宰。四男の飯田龍太も俳人となり、飯田家を継ぎ蛇笏の没後に「雲母」主催を継承した。 句集、評論など、著作は30冊を超える。
蛇笏は、「俳句道」を提唱した。「吾人はいやしくも俳句道に生涯を賭する決意の下に遅々たる歩みをつづけてきた。世上文学道の何れにも見出し難いところの唯一つの焦茶色の文学道」「我々の俳句は、皆粒々辛苦の、正しい人間生活から流れ出る結晶であり、指先からペンをかりてほとばしり出る血汐そのものでなければならぬ。
くれなゐのこころの闇の冬日かな
たましひの静かにうつる菊見哉
死火山の膚つめたくて草いちご
炉をひらく火の冷冷と燃えにけり
ふゆ瀧のきけば相つぐこだま哉
桐咲いて多摩の朝焼淡かりき(多摩を詠んでいる)
くろがねの秋の風鈴なりにけり
風さえて宙にまぎるる白梅花
いわし雲大いなる瀬をさかのぼる
山中の蛍を呼びて知己となす
『飯田蛇笏「現代俳句の批判と鑑賞」ーー約220の現代俳句の鑑賞』(復刻版。響林社文庫)を読んだ。
名句を鑑賞しながら俳論を述べるという趣向である。
山口青邨「ほのかなる香水をたてわがむすめ」。山口誓子「海中に馬色の有る馬冷す」。加藤楸邨「煎豆をかぞへかみつつ更衣」。高浜虚子「涼しさの肌に手を置き夜の秋」。久保田万太郎「秋扇たしかに帯にもどしけり」。橋本多佳子「いわし雲家出てすぐにを恋ふ」。高浜虚子「冬山路俄かにぬくきところあり」。山口青邨「吊るしたる猪の前雪が降る」。石田波郷「風雲の少しくあそぶ冬至かな」、、、、
「ほのかなる、、」については、伝統的であり、かつ近代的感覚がり、平明でなめらかで、面白みがあり人柄も出ていて、ほほえましいとしている。
「涼しさの、、」については、人事俳句として詩的迫力があり、かつ普遍的であるとしている。
「煎豆、、、」については、芭蕉的積極性があり、現実的でかつゆとりのある風格を感じさせるとしている。
虚子の「冬山路、、」にちては、山川草木野田自然に身を浸す心境だとしている。
以上、いくつかの批評を取り上げたが、芭蕉、蕪村、虚子、自身の句も縦横に用いて、自身の「俳句道」を論じており、読ませる。実作だけでなく、論も書くことの重さを感じることになった。
「もつ花におつる涙や墓まゐり」と9歳で詠んで褒められたことから始まった俳句人生の行き着いた句が。77歳の「誰彼もあらず一天自尊の秋」である。ライバルはもはやいない、世界にただ一人の自分の道を行くだけである。世に屹立しようとする蛇笏の気概に感動する。
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