季語はもう陳腐化してはいませんか

先人が使い古したその季語にいつまでしがみついているのか。
歳時記の「季語」は誰かが決めたもの。
その「季語」に縛られ仲間でいたいのか。
仲間はずれて自由に遊ぶ。

どの語句がどの季節を表すかを決めてそれに「季語」としての資格を与えて登録するのは、歳時記や季寄せの編集者です。季語であるか季語でないかの境界線が、監修者や編集者の判断によって決められているのです。歳時記に登録されている季語の中には、今はもう通じない死語や、今の季節には当てはまらない語句も季語として残って、俳句表現を縛っています。北海道から沖縄までに広がる日本では、季節感を表す語句は大いに異なるはずです。旧暦と新暦でも異なります。時代の変化に伴う季節感の変化もあります。外国に暮らして俳句を作ろうとすると、季節感を表す語句とそれが表す季節とが大いに異なってきます。話を日本国内の現代に限っただけでも、季語の決め事を気にして俳句を作ろうとすると、季語の「六法全書」とも言うべき歳時記や季寄せと照合しなければ、俳句が作れないという事態が起きています。それがすばらしいことでしょうか?私は素晴らしいとは思いません。季節を表す表現は否定しません。しかし、それの表現を誰かの権限でルール化するのことには反対です。表現者の自由に取り戻したいです。そして、季節を表す語句がないものも「俳句」と呼びたくて、私は、もはや生活と会わない季語を墨守することや、季語が無ければ俳句とは呼べないという見解に反対して、季語の有無の自由や、季節感表現の自由を唱えて「自由季俳句」というジャンルを自分勝手に作っております。今やもう、明治期に成立した「俳句」という文芸ジャンルにおける「季語」の決まりを見直す時期に来ていると私は思っています。正面から戦う気が無いので、自分勝手に「自由季俳句」を名乗って、どこにも応募せず、自分で作っては公開投稿し続けています。もちろん、俳壇に認められようなんて思ってもいません。自分一人の勝手な戦いです。いわば、究極の遊びです。私は季節を表現する語句を使うことを否定してはいません。自分も必要に応じて使います。私が反対しているのは、特定の季節に固定されて登録された「季語」が無ければ「俳句」ではないと決めつけることに対してです。それを、義務教育を受ける子ども全員に教えて、それを使って作句することや、季語と季節の対応関係を覚えているかどうかテストすることに反対しているのです。

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