函館満腹心中
窓辺に寄りかかり読書など嗜んでいたところ、窓の外の景色がふと目に入った。
初雪がちらりちらりと舞い落ちている、その雪が窓にぴとりと張り付いて雪化粧を始めた。
窓に張り付いた雪はどういうわけだか、初恋の人の横顔のようにも見えてくる。そっと指先で初恋の君の頬に触れてみると、まるで涙を流すかのように一筋つぅと雫が垂れた。
涙を流す初恋の君を眺め、僕は思う。
読書などしている場合ではない。書を捨てよ、そして心中旅に参ろうではないか。
なぜ僕はこんな雪が降るような季節まで長々と生きながらえてしまっていたのか。
夏物の反物を貰ったのは一昨年のことで、それに袖を通すまで死ねないというのならとっくに袖を通した。
今や僕は冬物の反物を来ている始末。
さぁさ、生き恥さらして今生に惨めを晒すのならば、いっそすっぱりおさらばするのが吉と言えよう。
思い立ったが吉日、僕は心中場所を求めて旅立つことにしたのだが、はて一人では心中が出来ぬ。一人で死するは寂しすぎる。
玄関先で革靴を履いてトランクケースを手にした段で、はたと心中相手が居ないことに気付いた僕であるが、そんな僕に声を掛ける者がいた。
「やぁ、センセ。曇天降雪のお足元悪い中、お出かけとはよほど急ぎの用があるようだね」
現われたのは狐面でも被っているのかと思う程に目の釣り上がった青年であった。
彼は秋頃から僕の家に下宿している学生―――と本人は語っているが、詰め襟の制服に学帽を見に纏っている癖にどこの学校に通っているのか定かではない、ようするに天麩羅学生である。
なので僕は天麩羅君と彼を呼ぶことにしていた。
そんな天麩羅君に僕はこれから心中旅に出かけるのでしっかり戸締まりをしておくように、そして僕の死んだ知らせが来た折りには書斎に置いてある机の引き出しの中に入っている創作途中の原稿などは全て燃やし尽くすようにと言い含めた。
すると天麩羅君は目を輝かせ、いそいそと制服の上に黒とんびなんぞ羽織っている。
「心中とあらば一人で行かせるわけにもいくまいね。私がお供してあげよう」
なぜ男と心中旅なんてしなくてはならないのか。
いっそ惨め過ぎて今この場で死ねる程である。
しかし天麩羅君は嬉々として僕に付いてこようとするので、仕方なく僕は自分でしっかりと戸締まりをして天麩羅君をお供に家を出た。
心中旅の目的地は函館とする。
北海道の南に位置する港町、函館ならばまだ雪は降ってはいないであろう。であるなら初恋の君を思い出すこともあるまい。
札幌駅から特急汽車の切符を二枚買って、天麩羅君といざ汽車へと乗り込んだ。
僕は元来特急というものが嫌いである。急ぐ旅でも無い時は鈍行に限るとは思うのだが、札幌から函館まで鈍行で行っていては到着する頃には時間が掛りすぎて、僕は初老を迎える歳になっている。
札幌と函館間は推測するに中国から天竺までの距離と同等である。僕には猿や河童や豚といった供回りもおらず天麩羅学生が一人付いてくるだけなので、その距離を鈍行で進む勇気はない。
特急汽車に乗ると天竺と同じ距離をなんと四時間弱で行ける。
ならば僕は四時間の天竺行きを、好きでもない特急に揺られて行く道を選んだ。
ただし嫌々乗っているので窓の外の景色には目もくれない。
僕は持ってきたトランクの中から葡萄酒の入った瓶とパンとチーズを取りだして、トランクケースを膝の上に置き、その上に白いハンケチを敷いてみた。こうして見れば一流の洋食店さながらのテーブルが目の前に出来上がる。
「けれどアルマイトのカップだといささか風情に欠けるね。硝子のグラスくらいあってもよいと思うけれど」
文句を言うなら葡萄酒もパンもチーズも分けてはやらないと言うより先に、天麩羅君は勝手に葡萄酒をアルマイトのカップに注ぎ、そして僕の分もついでに注いでくれた。変に優しいところがある。
「こうして汽車に揺られて葡萄酒なんて飲んでいると、私とセンセはまるでジョバンニとカムパネルラのようだとは思わないかい?」
「彼らは二人とも少年だぜ。葡萄酒をあおるはずもないだろう。せいぜい僕らはクラムボンとイサドだろう」
「よだかと鷹かもしれないよ?」
「そうなると我々のうち、どっちがよだかなのだ?」
「そりゃあ若く美しい私ではない方さ」
醜く哀れなよだかである僕は、しようがないのでナイフで切り分けたパンにチーズを載せて賎しくも囓っていることにした。
けれど函館まではまだまだある。四時間という時間を葡萄酒一本で乗り切るのは至難であった。
あっという間に二人で葡萄酒を片付けてしまい、手持ちぶさたになっていると天麩羅君はどこからともなく冷えた麦酒の瓶を取り出した。
「や、君。これは小樽ビールではないか。なんと準備のよいこと」
「センセはいつまでももの寂しくパンを囓ったりしないで、ほらこれをお食べよ」
そう言って、北菓楼の北海道開拓おかきまで出してきた。
地ビールである小樽ビールと北菓楼の開拓おかきの組み合わせは至極である。
ビールを口に運んだ後、おかきをぽりぽり摘めばまたぞろ喉の奥が乾いてきてビールを流したくなる。すると口寂しくなって再びおかきぽりぽり。
そういった無限なる循環が出来上がる。
人間は葡萄酒とパンのみで生きるにあらず。
ビールと開拓おかきだって必要である。
弥生時代の壁画などにもそのことが記されているらしい、つまりは古来より染みついた常識であるようだ。
「与えられたものを文句も言わずに口へ運ぶとは、いやはやセンセはまるで豚のような食性だね。ほら、鳴いてごらん」
ぶひぶひ、と鳴きながらビールとおかきを食べていると、いくつもの隧道を超えて我らは函館へと辿り付いた。
酔いが回ったのか、それとも汽車に揺られ疲れたのか、若干足下がおぼつかない。
しかも函館駅に降り立った頃にはすでに日がとっぷりと暮れていた。
こんなことでは心中場所を探せぬではないか。
「よし、とりあえずは夕食にしよう。酒も足りぬ」
我が賢明なる判断によりそういうことになった。
隣で天麩羅君も曖昧模糊とした笑顔を浮かべている。どことなく左右非対称に笑う奴である、不気味だ。
けれど函館に来るのは初めてだ。土地勘もなければ馴染みの店も知らぬ。
僕と天麩羅君は駅前からふらりと歩き始め適当な店の暖簾を潜ることにした。
そうしたところ、店先に野良なのか飼われているのかわからぬが一匹の猫が寄りついている店を見つけた。
「魚河岸酒場 魚一心」
そう看板を掲げている。
僕は店先の猫に誘われ、その居酒屋へと入ってみることにした。
店構えは昔ながらの酒場の風情を漂わせ、店内に入れば幾千人もの酒人が肘をついて酒杯を傾けてきたであろう、艶めくカウンターが出迎えてくれる。
日も暮れた時刻だった為に店内はすでに満員に近い。
そんな中、僕と天麩羅君は店の人に案内されカウンターの隅っこに陣を取ることが出来た。
こういう店は長々呑むというよりは、さっと呑んでは河岸を変えるかもしくは心中するに限る。
僕はすぐさま熱燗を二合頼んだ。
「それと活イカ刺しとサンマ刺しを頂戴」
まったく金を出す気もないくせに天麩羅君が意気揚々と注文している。無銭だというのに堂々とした佇まいと胆力に感服いたす他ない。
それにしても良い注文だ。僕も函館に来たからには美味しい海の幸で舌鼓を打ちたいと考えていたところである。
天麩羅君と杯を酌み交わし、熱燗で乾杯なんてしていると厨房内では職人が活きたイカを捌きはじめていた。
するすると剥かれ切られ解体されていくイカ、それでもうねうねと動いている。
きやつらの生命力というものは凄まじく、海の生き物ということになってはいるが聡明な僕はきやつらが星辰の彼方からの来訪者であることはすでに見抜いている。
それでいて美味しいのでどこの誰だろうが食してしまう我が身の浅ましさを笑いたければ笑うが良い。
美味にして満腹たる心持ちに嘲笑が敵うはずもない。
「どうぞ、生姜醤油でお食べ下さい」
そう言って運ばれてきたのは捌き終えられた活イカ刺しとサンマ刺し。
それのなんと美しいことか。
イカ刺しは透き通った雪の結晶で出来ているかのように輝いている。
その横に並ぶサンマ刺しは桃色の身がまるで果実のように瑞々しい。
「かつて函館出身の女史に、札幌で食べる刺身は函館に到底及ばないので地元以外では一切刺身は食べないと言われ、このスケぶん殴ってやろうかという気になったのだが、彼女の言っていたことも一理あるのだな」
こりこりという弾力あふるるイカの食感を堪能した僕は思わず饒舌に思い出を語ってしまう。あの時、かの女史をぶん殴らなくてよかったと心底思う。
「良いサンマの見極め方は、くちばしの先が黄色く、瞳は銀色に透き通っていて尻尾もぴんと張っているというところなのだよ、わかるかいセンセ。無知蒙昧なセンセでもこのサンマ刺しの美味しさはわかるだろう?」
「あぁ、わかるともさ。身に乗った脂の甘さといったら絶品だ。そこへ熱燗を流し込めば、まさしく五臓六腑に染み渡る」
ついつい熱燗も進んでしまう。
どんどんと酔いが回ってくると、ふと気付けば狐目の青年の姿はそこになし。
僕は独りで心中旅をしていた虚しい男―――となるのがお決まりなのだけれど、はて一向に天麩羅君は消え失せない。
どころか勝手に注文したホッケの開きなんかを嬉しそうに食べている。
「センセ、ところで心中はどうなったのだい? 函館山にでも登って夜景を眺めながら手に手を取り合ってなんてのは魅惑的じゃあないかい」
「君と手を取り合うなんてぞっとしないね」
「私とじゃあないよ。センセはどこか手頃な心中相手を函館で探せばいい」
「じゃあなぜ君は僕に付いてきたんだい?」
「そりゃあセンセが死ぬとこなんて眺めてみるのが面白いと思ったからだよ。臆病なセンセが死の舞台に降り立った時の滑稽な様を特等席で思う存分堪能する為にね」
「ならば君の前でなんて死んではやらん。絶対にだ」
こやつの無聊を慰める為に死ぬなど憤慨も甚だしい。
僕はさらに酒杯を煽って、もう酔いに任せ心中のことなんて考えないようにした。
「それでいいのさ、センセ。心中なんていつでも出来る。それより明日は朝市なんて冷やかしてみるのはどうだろう」
「朝市……なんだ、それは」
頭の中がふにゃふにゃと軟化していく。
考えて見れば僕は汽車の中からずっと呑みっぱなしじゃあないか。
もはや自分という輪郭すらぼやけていく中で、隣の天麩羅君が僕の顔を眺めて美味しそうに熱燗を舐めている。
「まったく飲み過ぎだよ、センセ。顔がイカみたく白くなってるぜ」
そうであるならば、次は僕がまな板にのせされ捌かれるのであろうか。
イカのごとく透き通った美しい刺身になれるのであれば、醜態さらす人の身であるよりよっぽどマシか。
イカになっちまいたい、そんな願いが函館の酒の中に溶けて消えていく、そんな夜なのである。
翌朝早く起きて朝市に出向き、釣り堀でイカを釣った。
えらく愉快であった。
おしまい
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