3分小説「結婚たち/嘘」
佳乃は嘘をついた。
今が一番幸せだ、なんて。
佳乃と夫は中学の同級生だった。
ふたりは今年で六十八歳になる。
「お母さんとお父さんは今が一番幸せだよ」
先日帰ってきた娘にそう言った。
娘が会社を辞めようと思っているという話をしてきた日だった。
「幸せになりたくて生きているのにさ、毎日会社行くのがつらいなんて駄目だなって思うから、私、会社辞めるね」
佳乃の作ったカレーライスを食べながら、娘はそう言って笑った。
「そうね。あなたには幸せになるために生きてほしい。私たちは応援するからね」
話はそこまででよかったはずだ。
「幸せ」なんていう言葉を久しぶりに発したせいか、佳乃は口が滑った。
「人生いつからでも幸せになれるから。だってお母さんとお父さんは今が一番幸せだよ」
冷蔵庫の前にいた夫がこちらを見た。
その言葉が嫌味だと知っているからだ。
「ふざけんな」
そんな言葉づかいをしたのは初めてだった。
「ごめん」
夫の浮気が発覚したのは二か月前のことだった。
相手は長年働いていた職場の元同僚だった。相手の年齢は聞いていない。
「でもほんとそのときだけで。ごめん」
数か月後、新しい会社で生き生きと働き始めた娘から電話がかかってきた。
佳乃はまだ夫と今まで通り暮らしていた。浮気の話はもうあの日以来していない。
「やっぱり働く環境って大事。人間、もっともっと生きる環境を自由に変えて生きていくべきね」
「よかったじゃない」
「お給料下がっても全然いい。お給料のために生きてない。私たちは幸せのためにさ」
佳乃はその言葉になぜか急にイライラした。
「あんたらは幸せ、幸せ、うるさいね」
なぜあんたらと言ったのかはわからなかった。
終わり
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