見出し画像

3分小説「結婚たち/契約」

 薫子は結婚しないと決めているわけではない。
 いい人がいればとは思っている。

「相手がどうこうじゃないの。まずあんたが結婚をしたいと思うかどうか」
 実家に帰るたびに母親に言われる。
 三十五歳独身の娘と七十二歳独身の母親。父親は数年前に旅立っている。
「結婚なんて誰とするかで全然変わるのに、結婚がしたいかどうかが先なんて変だよ」
 先日も実家の猫の元気がないという話をしていたのに、いつまのにかこんな話になっていた。
「わかってないねえ。家を建てるときだってね。まずは家を建てたいと思うかどうかなのよ。どんな家かなんてそのあと。いい家があれば、いや、素敵な施工会社があれば、理想的な建築家と出会えたら、そんなこと言ってたらいつまでたっても家なんて建てらんないからね」
 薫子と母はよく似ている。話がいちいち理屈っぽい。そして例えるのが好き。
「だけどね、そんな見切りで家を建てても欠陥住宅だったとかあるわけでしょ」
「そんときはそんとき、くらいに思ってないといつまでたっても結婚できないって言ってんのよ。だいたい理想的だと思った家だってね、住んでるうちに汚れたり、壊れたりしてくるんだから。どんな結婚だってだいたいおんなじなのよ」
「だったらいつまでも新しい賃貸に住み続けたいわ」
「ふふふ。いつまで借りられますかねえ」
「審査に通るよう自分に投資しますから」
「稼ぎがあると言うこと違いますねえ」
 薫子は思う。母親と結婚についてなんだかんだ楽しく会話ができてしまうことが良くないのではないかと。母親は説得しようだなんて思ってはいないと、分かってしまうからだ。昔から娘の意思を何よりも尊重してくれる人だった。
 でも、その日は最後にこんなことを言った。
「良い人、いるといいね」
 母親の膝の上にいた猫が鳴いた。その鳴き声はたしかに昔と比べてか細かった。

 好きな人はいた。
 しかしその人は結婚しないと『決めている』人だった。
「ごめん。俺、結婚には向いてなくて」
「わかる、無理してしなくていいと思う」
「・・・よかったあ、分かってくれて」
 その一言で薫子は何かとてもややこしい契約書にサインをさせられた気分だった。もちろん結婚がしたいと強く思っているわけではなかったし、自分に嘘をついて答えたわけでもなかった。
 それでも、何かにサインをさせられた気がした。何かを『させられる』と自分がちょっとだけ嫌いになるものだ。

 相手の価値観に合わせると、いつもこういう気分になる。飲み会でセクハラのボーダーラインを探られているときにする愛想笑いも、何かしらの契約書へのサインをした気になるし、会議で上司の朝令暮改に納得したふりをするときもサインをした気になる。そして嫌なら嫌とハッキリとした態度をとれず『させられる』自分がいつもちょっとだけ嫌いになる。

 薫子は、今回自分がどんな契約書にサインをしたのかスマホのメモに書いてみた。

甲(薫子。以下甲という)は乙(結婚をしないと決めている男。以下乙という)に対して結婚をしたいと言う権利を行使せず、また乙は甲からその権利の行使を改めて協議したいという申し出があった際にはこれを拒否することができる。

「じゃふたりで楽しく暮らしていこう。よろしく」
 会話の後、男は契約締結後の握手をするみたいにハグをしてきた。
 薫子は男の腕の中で、サッカー選手の移籍会見みたいだなと思った。たしかこの男は大学までサッカーをやっていたと言っていた。私の新しい背番号は何番だ、チームのために頑張りますとでも言う、ことはもちろんできず、
「よろしくね」
 と抱き返した。

 その後、薫子は男とそれなりに楽しく付き合っていたが、ひとつだけ「決めた」ことがあった。

 結婚が価値観の押し付け合いでどちらかが我慢するようなことなら、結婚なんてしたくない。でもそんな押し付け合いも悪くないと思うときがくるかもしれない。今の彼だって、考え方が変わるかもしれない。そう。未来のことは分からない。

 ただ、そのときに交わす契約書は、甲も乙も私でありたい。そう決めた。


甲(未来の薫子。以下甲という)は乙(過去の薫子。以下乙という)に対して結婚をしたくなったらいつでも協議の場を設けることができる。また今後も結婚はしたくない場合もふくめ、甲の決断のすべてを乙は尊重し、また乙のしてきた決断のすべてを甲は責めず、後悔せず、むしろ賞賛し、辿り着いた未来での日々をクソ楽しむものとする。

                            終わり

#小説 #結婚 #短編 #創作  

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?