祖母へ。

12月6日に祖母が亡くなった。

祖母の身の回りの世話をしていた叔母から夜中に連絡があり、家族の日程調整や葬儀の打ち合わせに一日置いて、祖母が住んでいた熱海にてお祖母ちゃんを昇天 みおくり、お骨を抱いて千葉の実家にお連れしてきたのが昨日の夜。
今日はもうことあるごとにお壇に安置したお祖母ちゃんに挨拶と報告をしている。

先んじて先月に、祖母が誤嚥性肺炎で入院したと叔母から連絡をもらっており、退院して起居していた特養施設に戻って落ち着いたタイミングで出向こうと思っていたのがあり、その件で面会について叔母と連絡を取っていたのが月曜日の午後。
その後すぐに祖母の血圧が80まで下がってチアノーゼが見られると施設から報告があった、と次いで叔母から連絡があって、そして上記の通り夜中に訃報。
出向こうとしていた矢先の訃報で、ほんの数時間前まで元気だと話を聞いていただけに驚いた。

正直今も頭の中の整理はついていないし、納得もできていない。

祖母は数年前から認知症が進んでいた。
以前から同じ話を何回もしたりというのはあったがコロナ禍で面会ができないうちに進行しており、今年の夏に一度面会をした時は、私はおろか自身の息子である父や娘である叔母も誰だかわからない状態だった。それでも私が祖母の孫で会いに来たというとよく来てくれたと喜んでくれ、別れの時は「またお待ちしています」と声をかけてくれた。

本音を言えばコロナがなければもうちょっと会う機会も多くとれていただろうし、祖母にもさみしい思いをさせないでいられたかもしれない。
だからと云ってどこかの誰かに恨みを以て攻撃するという事は祖母は望んでいない。祖母はそういう人ではないのだ。優しい人だった。

前述の通り入院こそしていたものの本当に直前まで元気は元気だったというのがあるが、せめて最後に顔見せるまで待っていてほしかったというのもあ本音で、逆にままならない肉体を捨てて魂なり御霊なりとしてしばらくは一緒にいてくれるというのならば私は何も言えないと思っているのも本当。
そして脳も体も弱り、長くないのならばせめて一目見て暖かな最期を、と思っていたのも本当で、それでも本当は死んでほしくなかったよ、というのが何よりの本音だ。


祖母は「普通の人」だった。

離れて暮らす私たちが長休みの時に顔を見せると喜んでくれ、悪いことやいたずらをすると怒って窘め、悲しいことがあったら一緒に泣いてくれる、そういう普通の心の働きがある人だった。

テストでよい点を取ったとか剣道で段をとったとか報告すると褒めてくれたのも祖母で、成長して背が伸びた事を一番喜んでくれたのも祖母で、留学することになった時にまず身を案じてくれたのも祖母で、一時帰国したときに海外の事物を一番熱心に聞いてくれたのも祖母だった。

また、所謂「子供らしさ」を嫌う親の元で育った私にとって、祖母は自分にとってその人の前では子供でいれる数少ない存在の1つであった。

私が子供のころ祖父母は北海道に住んでいたのだが、冬に赴いた際に雪に感動した私を連れて公園にいって大きな雪だるまを一緒に作ってくれたのも祖母だった。その後手袋をなくしてしもやけになり怒られたのもいい思い出。
そんな私の子供らしいエピソードには、ほぼ必ず祖母がいる。

つらい事があっても「ナニクソ!」と逃げずに踏ん張って前を向く。
他者の慶び事は心から祝う。
おカネやモノがなくても頭をつかって有用な物事をして、楽しく遊ぶ。
勉強をして家族や社会、他者の為に役立つコトをするのは大事。
そういう「大事なコト」を教えてくれたのも祖母だった。

今、改めて想う。
祖母がいて私は間違いなく幸せだった。感謝しかない。
同時に私は大きな施しをもらい、それに対して恩返しをできぬまま逝ってしまわれたのが口惜しい。
もしできるならしばらく見守っていて欲しいと思うのが本音だが、死者の魂を未練でつなぎとめる事はしてはいけないと弁えている。

せめて、もし、輪廻転生というものがあるならば、来世でも祖母の近くにいたいと思っている。

愛していたではなく、愛している。永遠に。

ありがとう。お祖母ちゃん。また会える事を願う。それまでどうか安らかに。

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