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【八十七日目】応援するということ②

こんなことを書くのは、ついこないだ開幕したプロ野球を思ってでもあり、昨日モンゴルに大勝したサムライブルー(昨日はホワイトだったけど)を思ってでもあり、もう少しで決勝を迎えるセンバツを思ってでもありますが、なんといっても一番の理由は最近何かと話題の文春砲です。

アイドルを広く浅くチェックしながら、時にのめりこんで応援する私にとって、ここ数週間はなんだかそわそわしてしまう時間でした。

アイドルを「推す」、すなわち「応援」する。

この「応援」の在り方が改めて問われた時間でもありました。

アイドルである以前にひとりの人間だ、とか、アイドルとしてお金をもらってるんだから、とか、ひとそれぞれ思うところがあるのだということは、各種SNSを見ていればよくわかります。

私自身、過去にも文春砲が炸裂するのを見て来たので、似たり寄ったりの出来事だなとは思うのです。

そのたびにこんな感じで「応援」している人たちは荒れる(とまではいかなくても不信感やドキドキを感じる)わけですが、どうもこれは「応援」する側にも問題があるのかもしれません。

簡単に言ってしまえば、「応援」の対象に自分を寄りかからせ過ぎていると思う、ということです。

アイドルだって人間ですから、何かしら欠けているのです。

それなのに、勝手にレッテルを貼って、彼女は彼らは完璧だと勘違いして、いや、勘違いしていなくとも勝手に脳みそがそういった基準を作り出してしまう。

そんな「応援」は、不要なプレッシャーじゃないですかね。

大半の人はきっと、悪気はないんです。

純粋に応援していると思っているのです。

でも気づいたら、彼ら彼女らのゆとりある空間は狭まっているという、なんと悲劇的なことでしょう。

人に何かを頼むとき、たいていのひとは「埋め合わせは何かするから」と言いますよね。

アイドルと「応援」するひとの関係性だって、これと同じなはずです。

Win-Winの関係、と言ってしまうと、アイドルが作り出す「偶像」にお金を払う「応援」するひと、という構図が浮かびがちです。

それは確かですが、言いたいのそこではありません。

互いが互いを尊重する、ということを見えない「顔」を通して実現する。

身近な人間関係だったら注意することを、アイドルという近くはない存在にできるかどうか。

私たちが本当の意味で「応援」できるのはいつなんでしょう。

2021/3/31/22:53 ヒサノエイ



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