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ひさみの超私小説⑥:私の髪の色は?目の色は?肌の色は?何色?

私の超個人的なお話⑥。前回の⑤では、お茶くみ・コピー取りがエージェンシーの女性の仕事だった時代に、なぜ私は男性と同等の営業職になれたのか? 担当のCliniqueのブランディングや結婚式のエピソードなどを語った。今回はいよいよ26年間の米国生活の幕開け、及び、移住当時の山あり谷ありのストーリーを記していきたい。

激怒する夫を初めて見た私

SFO(空港)に降り立ち、通関時に長期不法滞在と疑われてパスポートを取り上げられた私は、その時の夫の怒りの凄さに震え上がった。彼は当時非常に穏やかで滅多に感情を現わさない人で(今と随分違って、日本赴任中彼は色んな事を我慢していたらしい)、私は初めて怒り狂う夫を見た。彼は「君がアメリカ人の僕と日米の法律に則って正式な手続きをして結婚したために、君のLast nameがパスポートで変更された。それを見て、たまたま帰りのチケットがオープンだからといって、君を長期不法滞在者と疑うということは許せない。日米間には3か月間の観光ヴィザがあり、誰もがその権利を有する。パスポートを変更せず、日本名のまま日米の二重ステイタスで両国を往復する人間は多く存在するが、彼らは一切咎められずに楽々通関している。僕の赴任地が正式に米国だと決まれば、君の永住者の申請をするつもりだったが、コトはそれ以前の問題で、パスポート取り上げて弁護士を連れてこい、という馬鹿げた話になってしまった」と激しく憤りを現わしていた。

当時、私のようにパスポート名を変更せず、自国のパスポートで観光客として米国に入国し、長期不法滞在する人が増えており、また永住権獲得のためだけにアメリカ人と結婚する人など、様々なケースが起きていた。丁度、そんな時期でタイミングが悪かったとも言える。

弁護士同行の上でパスポートを取り戻しに向かう私は罠にかかった兎のように怯えていた

夫はすぐに移民法の弁護士を見つけてきて、彼に状況を説明した。その後、夫は、係官による尋問に答えるべく、私に想定質問にどのように答えるべきかを教え始めた。当時、私はまだ英語に慣れておらず、夫以外のアメリカ人の英語の聞き取りが苦手だった。さらに、法律用語を散りばめた想定質問は、非常に難しく聞こえた。Yes or Noを間違えれば、パスポートの返却どころか、私は日本へ送還されてしまうという状況で、生まれて初めて「兎のように怯えてしまった」。

当日、空港の狭い検査室に入る前、夫はベースボールの監督のように「Yesの時はこう、Noの時はこう」と指サインを私に教えた。検査官の冷たい顔と声音に怯えた兎状態の私は、びくびくしながら、横に座る夫の指を時々チラッと見ながら、答えていった。私への質問が終わり、弁護士が宣誓書のような書類を渡して、無事にパスポートが戻って来た。

子供の時から、「恐れ」というものとは殆ど無縁で育った私が、兎にも角にも物凄く怯えた、あの検査官の狭い一室での出来事は、今でもTraumaとして心に刻まれている。その後1年がかりで、永住権を獲得することになるのだが、観光ヴィザの期間が切れる3か月ごとに日本に帰国し、また米国に戻るということを繰り返した。この時、SFOの通関ほど嫌な場所はなく、毎回パスポートを見せるたびに、また別室に連れて行かれて、パスポートを取り上げられるのでは? という恐怖心に苛まれた。

永住権獲得に偽夫婦でないという友人達の証言

永住権申請は基本としては、日本の米国大使館で申請することが前提で、私は日本に帰国した時、米国大使館に通った。一番驚いたことは、友人による「この夫婦が本当に結婚している正式な夫婦で同居しており、永住権獲得のためだけの偽りの夫婦ではない」という証言が必要という点で(確か写真も必要だったような気がする)、手間と時間がかかる慎重な審査であったコトを記憶している。

永住権獲得以外に米国でしなければならないことは沢山あるが、米国で身元を明かす最も重要な「Social Security Number(SSN)」を得るために、2人でSSNのオフィスに向った。SSNがないと本当に何も手続きが出来ない米国で、パスポートしか手元にない私は、本当にSSNを発行してくれるのかが疑問だった。オフィスの窓口で、申請理由の「納税や銀行口座開設のため」という項目を見て、係りの人は「これでは不十分、他に理由はないのか?」と聞いてきた。夫はちょっと考えて、「運転免許取得に必要」と答えると「それは理解できる。じゃあこの申請を受理する」とあっさり認めてくれた。夫は「アメリカで納税よりも車の運転ができるかできないかということの方が重要だという証明がされた」と言って、笑っていた。私はほっとしたものの、よその国で生きるリアリティがひしひしと感じられ、この先様々なハードルが横たわっているんだろうなと、漠然と思っていた。

注:今は、旅行者に過ぎない私のような立場の外国人に、こんなに簡単にSSNを発行するわけがなく、当時は時代がのんびりしていたのか、或いは私が非常にラッキイだったのか、なんとも説明がつかない。

私の髪の色は?目の色は?肌の色は?何色?

日本の米国大使館とは別に、米国でも永住権申請手続きをしなければならず、私達は手続きのオフィスに向った。用紙が渡されて、私は記入し始めたが、身体的な特徴(体重・身長以外)の欄で、大いに困惑する質問が出てきた。

私「私の髪の色はBlack?」夫「Yes」、私「私の眼の色はBlack?」夫「No, brown」、私「私の肌の色は?今まで一度も自分の肌の色を描写したことがない。何色って書くべきなの?Yellowって書かなきゃいけないの?」夫「No, light brown」と言われた。

この時の衝撃は大きかった。まだまだナイーブだった私は、生まれて初めて、自分の肌の色を描写する機会に遭遇し、夫に「Light brown(薄い茶色)」と言われて、かなり驚いた。「自分の肌の色がBrown(茶色)」という認識を、日本人の中でどのくらいの人が持っているだろう? 日本でいうところの「肌色」という表現が、米国では使えず、白人以外はみんなPOC(Person of color)になってしまう。今思えば当たり前のことだが、当時の私は面食らった。

また人種欄では「White, African, Hispanic, Asian, Pacific Islander and American Indian」という区分けがあり、私は「日本は島国だからPacific Islanderに丸つけたほうがいいかな?」と聞くと、夫は「君がそうしたければそうすればいい。だけど常識的にはAsianだと思う」と言われて、Asianにした記憶がある。

人種とは縁遠い国で38年間生きてきた私は、「肌色」という表現が存在しない国で、「Person of color(有色人種)」というカテゴリに、自分が入ったという自覚が、この時初めて生まれた。

米国で初めて買った製品は「SUBARUのLagacy」

米国で最初に住んだSan Joseのアパートメントは、家具付きの部屋でプールもあり、海外からの帰国者が利用しやすく、一時的な滞在場所として使用される場合が多かった。通りを渡ると、向かいには紀伊国屋書店とMitsuwaという日本食材のマーケットがあり、右も左も分からない私にとっては、便利な場所であった。

私が1995年米国で初めて購入した商品は、SUBARUのLegacyであった。当時、SFベイエリアから夫の子供達3人が住んでいたSalt Lake Cityにドライブするためには、雪深いSierra Nevadaを超える必要があった。冬季、CaliforniaからNevadaの州境を超える際、チェーンを装着していない車は、係官に誘導されて脇道でチェーンを装着する必要があった。私は或る日、TVコマーシャルで、州境で多くの車が雪中チェーンを装着して四苦八苦している中、係官が1台の車がSUBARUであることを認めると、「はい、OK」といった感じで、スーッと通すというシーンを見た。当時AWD(All Wheel Drive)のステーションワゴンは、Legacy とVolvoしかチョイスがなかったが、そのAWDの特徴を最大限に生かすこのCMを見て、SUBARUってなんてSmartな広告で訴求するんだろうと感心した。

勿論SUBARUのことは日本時代からよく知っていたし、Volvoのあまりにもスクエアなスタイリングは好みではなく、私は迷わずLegacy を選んだ。色はSpruceという翡翠のようなグリーンで、退職金がまだ手元にあり、現金でLegacy を購入した。後述の話だが、夫の前妻もLegacy(色はSpruce)を購入しており、夫は「僕は父親が1月1日生まれで(彼女と私の父親がそう)、車はSUBARUで色はSpruceを選ぶ女性としか、結婚できないみたい」と冗談を言っていた。

日本時代は、真っ赤なユーノスロードスターのトップを空けて、ビュンビュン運転していた私は、ステーションワゴンという機能性を重視したLegacyを購入して、完全にシングル時代に別れを告げたような気がした。

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SUBARU Legacy: 1995年から2013年(正確な年がちょっと出てこない)18年間は愛車「スーちゃん」に乗っていた。娘がオイル交換をしないで長距離ドライブに出たために、スーちゃんは亡くなったしまったが、私の米国生活の初期を支えてくれた愛車だったので、とても悲しかった。

コピーマシーンが故障中で日本語の運転免許試験用紙がない!

車購入と共にSSNの取得も意外と早く出来たので、すぐに運転免許試験を受ける準備に入った。San JoseはJapantownもある土地柄のせいか、意外と日本人も多くいて、運転免許の筆記試験も日本語で受けられることが分かった。紀伊国屋で日本語のカリフォルニア州の運転免許試験の参考書と例題集を買ってきて、早速勉強し始めた(すべてアナログの時代)。その間、運転は日本から持参した国際運転免許証を使って、夫の実技コーチを受けながら、Legacyで練習していた。

日本語だったので、すっかりアタマに入って、筆記試験と実技試験のアポイントメントを取って、満を持して夫と2人で会場のあるDMVに向った。まずは筆記試験からで、係官に日本語の試験用紙で受けると告げた。彼は暫くして残念そうに「今日コピーマシンが故障していて、日本語の用紙がコピーできない。英語ならできるけど、英語でやる?」と言われた。

私は一度も英語で交通法規を読んでおらず、とても出来ないと思い、無理だと言おうとした。逡巡している私に向って、夫は「ダメ元なんだから英語で受ければいい」と言い放った。私は「確かに、ダメならばまた来るだけの話なんだから、モノは試しだ、やるか!」と思い、英語で筆記試験を受けた。

日本語で理解していたせいか、英語の法規にもそれを適用出来て、質問の解釈も何とかできて、結果受かってしまった。実技は同乗した教官との英語のやり取りで多少ガタついたが、これも何とか受かり、無事にCAの運転免許証を獲得できた。

"Yes we can!"

当時、私は「筆記試験に落ちることを失敗と考えて、恥ずかしいことだ」と思っていた。今ならば迷うことなく、「これも経験なんだ、やってみよう!」という発想を持てるが、26年前の私は、まだまだ日本人血中濃度が色濃く、日本的な固定概念に縛られていた。

「コピーマシーンが故障中、ごめんね」みたいな、米国のAboutな仕事ぶりには驚いたが、夫に言われた「Yes you can!」という発想は、ここで学んだ。当時のアナログの世界で、Google検索などとは程遠い中、私は米国に来たばかりで、夫をGoogleやSiri代わりに酷使して、様々な質問を浴びせた。夫は多くの事柄に丁寧に答えてくれたが、特に理由がない事柄に対して "Because we can"と答えた。

私は「そうか、アメリカ人というのは、自分ができる、ということが理由として成立し、物事をやってしまうんだ」と、心底驚いた。

13年後の2008年Obamaが、"Yes we can!"というスローガンで登場するが、この言葉はアメリカ人気質を良く表していると思う。私のの2番目の書籍『YouTube時代の大統領選挙ー米国在住マーケターが見た、700日のオバマキャンペーン・ドキュメント』は、このObamaが大統領になるまでの道のりを綴っているが、1995年の私はそんなことは夢に思わなった。

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さあ、次は、壁に何度もアタマをぶつけられて、多くの試練が待ち構える、米国での仕事探しの日々を記す予定。日本時間の4/29-5/10までは、1年半ぶりのセーリングでセールボートに宿泊しているので、ブログはお休み。『ひさみの超私小説』⑦は、多分5月中旬掲載予定。




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