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ひさみの超私小説②:2時間話さなくても心地よく感じる、『結婚』ってこういうものかな?

前回の出会いが好評だったので、気を良くして、その後を語ります。私の超個人的なお話②

「緑の中を走り抜けてく真紅なユーノス~」

1994年3月24日の深夜の出会いの後、2日後の土曜日に、借りた傘を返すために、その男性と再会した。何の気兼ねもなく、英語で会話ができることに驚きながら、私はディナーをエンジョイした。彼が翌日の予定は?と聞くので、特にないと答えると、じゃあ明日も会わないか?と誘われた。丁度桜がどんどん開花し始めていたので、私はお花見をしようと決めた。

オープントップの真っ赤なユーノスロードスター(Eunos Roadster)(米国ではMazda MX-5 Miata)で、私は全日空ホテルに彼を迎えに行った。

1989年5月父が亡くなり、私は自分だけの車が欲しいと思い、その年発売予定のユーノスロードスターを買うことに決めた。予約がいっぱいで翌年じゃないと入手できないとディーラーに言われたが、来年まで待てない私は、当時の知人で、電通のマツダ担当に相談した。彼はマツダの部長に直接お願いすれば、何とかなるかもと言われて、部長を紹介された。部長は会った瞬間「大柴さん、予約なしで、すぐにユーノスを調達します。但し条件があります。色は赤です」と言われた。私はシルバーだと決めていたので、「えっ、赤ですか?」と聞き返したが、部長は「大柴さんがオープントップの赤のユーノスで街中を走れば、ユーノスの大きなPRになるので」と言われ、結果、赤のユーノスを買うこととなる。

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部長との約束を守って、当時の私は、仕事(通勤や撮影スタジオ)や私事(ゴルフや旅行)など、どこへも行くにも赤のユーノスで出かけ、いつの間にか今で言うところの「真っ赤なユーノスのBrand ambassador(ブランド大使)」となっていった。但し、一番気を付けたのは葬儀への出席。喪服を着て赤い車を運転しながら、かなり距離のある場所に停めて、目立たないように、葬儀場まで歩いて行ったのを思い出す。

PS①:この後、初代ユーノスの「ゆーちゃん」とは米国移住の際に別れを告げるが、米国でもゆーちゃんの姉妹Miataの「みあちゃん」との関係が生まれる。それは追って触れていきたい。

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Eunos Roadsterの革新性は、能の「小面」をイメージしたフロントデザインにも表れていた

このユーノスロードスターに関しては、Wikiで、当時如何に革新的で、消滅しかかったLight weight sports car(軽量スポーツカー)市場を活性化させて、多くの車メーカーに影響を与えたかが分かる。

1989年5月にアメリカで発売された。日本国内では同年8月に先行予約を開始し、9月1日に発売された。発売初年には国内で9307台を販売、翌年は世界で9万3626台を販売してスポーツカーとしては大ヒットとなった。このロードスターの成功を受けトヨタ自動車(MR-S)や本田技研工業(S2000)などの国産メーカーだけでなく、MG(MGF)やフィアット(バルケッタ)、BMW(Z3)、メルセデス・ベンツ(SLK)、ポルシェ(ボクスター)といった海外メーカーまでが影響を受け、中小型オープンカーが開発された。消滅しかけていたと思われていたライトウェイトスポーツカー市場が活性化する起爆剤になった。
2000年には生産累計53万1,890台を達成し、「世界で最も多く生産された2人乗り小型オープンスポーツカー」としてギネスブックの認定を受けた。また、2004年の生産累計70万台達成時、2007年1月30日の生産累計80万台達成時、2011年2月4日の生産累計90万台達成時にも記録更新の申請を行い認定されている。そして2016年4月22日にはついに生産累計台数100万台を達成した。

デザインモチーフには「日本の伝統」を記号化したものが多く用いられたこともあり、そのユニークさは際立っていた。フロントマスクは、能面のひとつである「小面(こおもて)」からインスパイアされたもの。シート表面のパターンは畳表の模様、リアコンビランプは江戸時代の両替商が使った分銅の形をデザインしている。

以下は、柏木裕美一面打師による「小面」の写真プリントで、奈良の春日大社に奉納されている。私は2004年に彼女の能面展に出かけて入手した。私の「ゆーちゃん(私はロードスターをこう呼んでいた)」は、まさにこの能面のような顔立ちで、私は彼女を親友のように思い、こよなく愛していた。

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PS②:私は1995年米国に移住し、2000年のドットコムバブルの終わり頃、日本の伝統工芸のオンラインサイトを起こすべく起業し、資金調達に走り回っていた。その当時日本の文化をより深く知るために、知人に紹介されて、能の人間国宝の櫻間道雄の孫として生まれ、第21代櫻間家当主となった櫻間右陣(私がお目にかかった時は櫻間真理)のご自宅に伺う機会を得た。櫻間家の「面(おもて)」を手渡されて、面を顔に当てて、内側の眼の位置から外の世界を垣間見るという機会を得た。私は、まさに何とも言えない、表現しにくい世界が見えて、面の不思議さを味わった。私は、能という世界の奥行きを、櫻間家の面によって知らされた。

「シンカンセンひさみ」参上!

私は、真っ赤なポルシェではないが、ユーノスに彼を乗せて、満開の千鳥ヶ淵に向かって走り出した。当時は、良く車で会社に行っており(バブルだった)、都内の道は、裏道や一方通行を含めてかなり知っており、ちょこまかとシフトを変えながら、車を走らせた。彼は目を丸くして「君はまるでCab dirverみたい。この迷路のような東京の色んな道を知っている」と驚いていた。

当時、彼は東京から離れた田舎町に赴任しており、何度か東京で会った後、GWに遊びに来ないかと言われた。彼の赴任地は、国分寺の実家からは、列車を乗り継いで4時間かかるところ。こういう列車に乗ること自体が、私にとって旅を意味し、東京生まれの東京育ちで、入社後もひたすら東京の夜を徘徊していた私は、田舎の居酒屋体験に1人でワクワクした。

地元の人で混み合う居酒屋で、私は全く彼らの話す言葉が聞き取れず、外国にいるような気分で、ちょっと高さのある座敷で胡坐をかいていた。彼は「僕は、いつも彼らの日本語と聞いているので、君が東京で他の人と話す日本語を初めて聞いた時、なんてクリアで聞き取りやすく、綺麗な日本語を話すんだろうと、感心したんだ」と言われ、彼の気持ちが理解できた。

そんな中、私は珍しく早めに仕事を終わらせて帰宅出来た金曜日の夜、突然週末は彼のところで過ごすことを思いつき、早朝車で向かうと彼に電話した。いつもは4時間近くかかる列車の旅であったが、早朝で道も空いており、ユーノスで高速道路をスピード違反ぎりぎりの速度で飛ばしに飛ばして、3時間で彼のアパートメントに着いてしまった(告白:120kmの制限速度であったが、多分130-140kmぐらいは出したかもしれない)。

ドアをノックすると、彼は部屋の掃除の最中で、私の到着時間のあまりの速さに驚き、「もし新幹線が開通したらこのスピードだ。君は『シンカンセンひさみ』だね」と絶句していた。

雨の中、2時間黙って時を過ごした2人

その日は朝から雨が降っていた。彼は新たなステレオプレイヤーを購入したので、そのセットアップを始めた。私は雨の音を聞きながら、田園風景を目にして、持参した小説を読み始めた。セットアップが終わった彼は、迷うことなく、Eric Claptonのアルバム『Unplugged』をターンテーブルの上に置いた。私達は、何故か何も言わず、ただアルバムを聴き始め、およそ2時間近く、2人の沈黙は続いた。

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私はふっと思った。2時間何も話さなくても、非常にリラックスして気持ちがいい。こんな風に、言葉を必要としない心地よさが、得られる相手ってそんなにいない。「結婚ってこういうことかな?」

今まで、こういう風に考えたことがなかった私だが、雨の中の沈黙の2時間は、私に何かを教えてくれた。私は、この人とずっと一緒にいたいと初めて、心から思った。

私は彼に「2時間近く話さなかったけど、気持ちよかった」と告げると、「僕も同じようなことを考えていた」と、彼は答えた。

田舎町初のタクシーの送り迎えによる海水浴

『シンカンセンひさみ』は、その後も度々真っ赤なユーノスで、3時間という超スピードで、彼が住む田舎町に通った。彼のアパートメントの裏にはトウモロコシ畑とひまわり畑があり、季節が移り、まばゆいばかりの色に染まって行った。

ある週末、彼が仕事のためにオフィスに出かけた。手持無沙汰の私は「そうだ!あの太平洋の海岸で泳ごう!」と思い立ち、早速電話でタクシーを呼び出した。運転手さんに、「ビーチへ」と告げて、近くの海岸に連れて行ってもらった。太平洋の大海原の波の荒い海岸には、海水浴場がある訳でもなく、人っ子一人おらず、怪訝な顔の運転手さんに、2時間経ったら、迎えに来て欲しいとお願いした。

1994年当時は、今では想像もつかないほど、プリミティブな時代だった。勿論、携帯電話もインターネット(日本では皆無に等しい)もなく、コミュニケーションは、固定電話がメインで、あとはFax或いは手紙という、スロウな通信手段で、時間は誰に対しても、ゆっくりと流れて行った。

流石に太平洋の荒波は激しく、私は何度も海中に叩きつけられた。久しぶりの太平洋の海水は実に気持ちよく、母の故郷の伊豆大島で、夕方唇が紫色になるまで泳ぎ続けた、子供時代を思い出した。泳ぎを満喫して、海水でびしょ濡れの私は、どこかで海水を落とさねばと思い、周りを見渡すと、丁度海に流れ込む川がそばにあり、川にじゃぶじゃぶ入って海水を落とした。

海岸に迎えに来た、怪訝な顔の運転手さんは、「何をしていたの?」と聞いた。私は「海で泳いで川で海水を落としてきたので、車は汚れません」と答えた。運転手さんは、「あれまあ、お客さんが初めて。この海岸で泳ぎたいからって、車を呼んだのは。泳ぎが出来るんだね、お客さんは。普通はこの海岸は波が荒いから、誰も泳がないんだよ。それも川で身体を洗うとは賢いねえ」と言って、目を丸くしていた。

オフィスから戻った彼に、今日何をしていたの?と聞かれ、私はタクシーを呼んで海で泳いで来たと答えると、またしても口あんぐり状態となった。経緯を話しながら、川で身体を洗ったという部分では、思わず吹き出した。「君はやろうと思ったことは絶対にやり遂げるんだね、プランなしに」と絶句していた。

英語の"If"が聞こえず、勝手にプロポーズされた思い込んで結婚を決意した私

いつの頃だか、はっきり記憶にはないが、彼が、何かの拍子で、私に"If We Got Married..." と言った。私は、この後に続く言葉を覚えていない。また、これは今だから言えるが、この"If”という言葉が、完璧に私の耳に入ってこなかった。

私は、この"If"が抜けたフレーズに、アタマの中で即座に反応した。「あっ、プロポ―スされたんだ!小説や映画の中のプロポーズの台詞とは随分違うけど、まあいいや、彼はシャイだし、間接的なプロポーズなんだ」と、思い込んでしまった。

その後、プロポーズされたかどうかの確認もせずに、私は結婚を機に、会社を退社すること(彼の住む田舎町から通勤は困難)や、退社後の田舎町での私の仕事は文章修行をして報道記事を書くことなど、様々なことを考え始めた。

ある程度プランがまとまった私は、早速「結婚式は、子供の頃から夢見た、満開の桜の樹の下でしたい。来年の4月がいいと思う。場所もある程度、あたりをつけたの」と伝えた。この時、彼が沈黙したのは、何となく覚えている。

その後も色々あったが、結果、翌年の4月8日のお釈迦様の誕生日、前日までの春の嵐が打って変わったような晴天の中、私たちは、満開の桜の樹の下で、式を挙げた。

暫くして、時がたってから、

彼は「あの時、君は"If"が聞こえなかったたんだね」

私は「えっ、あの時、私にプロポーズしたんじゃなかったの?」

彼は「うん、してない。もし僕たちが結婚したら何々だね、と仮定の話をしたんだ」

私は「どうして、私が結婚式のプランを話し始めた時に、それを言ってくれなかったの?」

彼は「君がやり始めたことは誰もとめられない。それに君が勘違いしたままっていうのも悪くないと思ったから」

英語が出来ないっていうのも、案外悪くないってことを、証明する、私の物凄く私的なストーリー。




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