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息を吐く

うとうとと微睡んでいたところを、突然のノックの音によって意識が現実へと引き戻された。時刻を確認すると23時半過ぎ。こんな時間に誰が、と訝しがっている間もノックの音は止まず、さらには段々と強くなる。

その頃の私が暮らしていたのは学生寮で、来訪者は部屋の前まで来てノックをすることができている以上、寮生であることは間違いなかった。深夜に訪ねてくるということは何か急用があるのだろう。そう思った私は急いでベッドから降りて寝ぼけ眼で眼鏡をかけ、よたよた歩いて扉を開ける。

「あ、あの」
この子は確か、寮の中の別のユニットに住んでいる後輩だ。回らない頭の中から私が彼女についての情報を引っ張り出したのと、彼女が泣きそうな声で用件を伝えてきたのはほぼ同時だった。

「隣の部屋のKちゃん、体調悪いみたいで、救急車呼んでて」
「えっ」

当時の私は大学2年生、ゴールデンウィーク終盤のある日の夜のことである。


ノックの主だった後輩である1年生、Oちゃんに導かれるまま、パジャマ姿のままバタバタと隣の部屋へ駆け込むと、Kちゃんは床に倒れ込むような形で横たわっていた。
「20時ぐらいから体調悪かったらしくて」Oちゃんが言う。「ちゃんと息ができてないのと、身体が勝手に震えるって」

不規則で荒い呼吸と震えている手足、真っ白な顔色を見てすぐに、過呼吸だ、とわかった。Oちゃんは「私救急車の誘導してきます、そばにいてあげてください」と飛び出していった。言われるがままにKちゃんに近づき、手を握ってとりあえず意識があるのかだけ確認しようと声をかける。「Kちゃん、Kちゃん、わかる?」頷くなりなんなりしてくれれば、と思っていた中、返ってきた反応は思いもよらず「すみません、遅くに」という謝罪の言葉で、胸が締め付けられるような気持ちになる。「いいんだよそんなこと」言いながら、判断に迷う。本当にただの過呼吸であれば、うつ伏せにさせるなり背中を丸めさせるなり、息を吐きやすい体勢になってもらった方が良い。でも、もしただの過呼吸じゃなかったら。迷った末、体勢は動かさないままでいることにした。片手はKちゃんの手を握ったままで、もう片方の手で背中をさする。「大丈夫だよ、大丈夫。苦しいと思うんだけどさ、私と同じように息、できる?」浅く頷いてくれたのを見て、手をぎゅっと強く握りなおす。

吸う、吐く、吐く。吸う、吐く、吐く。実演してみせながら、とりあえず息を吐き出す方に集中してくれるよう、祈る。過呼吸になると、息苦しさのあまりに息を吸おう吸おうと足掻いてしまうが、本当に必要なのは吸い過ぎている酸素を吐き出すことだ。

そうこうしているうちに救急隊がやってきた。Oちゃんと共に邪魔をせぬよう壁に張り付くようにしながら見守っているうちに、あっという間にKちゃんは担架に乗せられ運び出されていく。「どなたか付き添いされますか?」救急隊員に尋ねられ、Oちゃんの方を見る。「私はちょっと……」と申し訳なさそうな顔をするOちゃんの反応を受けて、「いらっしゃらなくても一応大丈夫ではありますが」と救急隊員が私の方を見る。ここでも少し判断に迷った。Kちゃんの同期であるOちゃんであればまだしも、学年的に先輩である私、しかもただ隣の部屋に住んでいるというだけで挨拶をする以上の関わりがない私が付き添ったところで、Kちゃんに気を遣わせてしまうだけではないのか。だが体調が悪い中、真夜中の病院から帰宅せねばならないことを考えると、誰かしら付き添いがいた方が良いのではないか。そう思った私は「じゃあ、私、行きます」と答えてからすぐに自分の部屋へ戻り、パジャマの上からスウェットを被り、スマホと財布を引っ掴み、寮のロビーへと階段を駆け下りた。

救急車に同乗したのは、10数年も前、弟がまだ小さかった頃に救急搬送されたとき以来2度目だった。ゴトゴトとした揺れを感じながら、ああ確かにこんな感じだった、と思う。体勢と気持ちが崩れないよう、背筋を伸ばす。

病院に着き、Kちゃんが乗った担架が処置室に吸い込まれていくのを見届けると、受付へと誘導された。「Kさんの保険証、お持ちですか?」と促され、何も考えず抱えてきたKちゃんの部屋にあったリュックから財布を取り出す。Kちゃんごめんね勝手に開けちゃって、と思いつつ少し探すと、無事に見つかって安堵する。受付の方に手渡した後、処置室の前の廊下に案内された。

少し冷静になって、寮生のグループラインのメンバーの中からOちゃんと思しきアカウントを探し当て、個人トークで連絡を入れる。無事に病院に着き、Kちゃんは処置中だということ。119番通報をし、隣人の私に助けを求めてくれたことへの感謝。心配だろうけど、今晩はしっかり休んでほしいということ。最後に返信は不要です、と追記し、ようやくほっと息をついた。

30分ほど待っただろうか。看護師さんに声をかけられ、処置室の中へと通された。いくらか楽そうになった様子のKちゃんを見てほっとしたのも束の間、「学生寮に住んでるんだってねえ」「2人は同じ学部?」「良かったねえ優しい子が寮にいて」と口々に喋り出した3人の看護師さんの陽気な様子に少々面食らう。無難に曖昧な相槌をうっていると、次は「こちらへ」と車椅子に移動させられたKちゃんと共に医師のいる部屋へと案内された。

「今日は入院していってもらっても良いんですけどね、ご本人が迷惑をかけたくないから帰りたいとおっしゃるので、少し様子を見て落ち着いたら帰宅していただく方向で」と医師が言う。ということはそこまで大事ではないのだろう、と私は胸を撫で下ろす。「ご本人曰く、空腹の状態で急にカフェインを摂ってしまったということなのでそのせいもあるかもしれないし、あとはまあ時期が時期ですから、いろんなストレスもあるでしょうし。大学進学でこっちに来たばっかりなんだよね?」Kちゃんは小さく、はい、と答えた。

1度過呼吸を経験すると、繰り返してしまうケースが少なくない。もしまた同じようなことになったら、遠慮せず119番通報をして構わない。もしくはここの病院に連絡して。そんなことを言われて、看護師さんに病院の情報が載ったカードがKちゃん、そして私にもそれぞれ手渡された。

正直な話、少し驚いた。過呼吸ごときで救急車を呼ぶものではないと、諭されるのではないかと構えていた私がいたから。でもきっと、ストレスが原因となることが多い過呼吸の未然防止を図るためには、心理的な負担を少しでも減らして、かつ起こってしまった後にも頼ることのできる場所を確保しておくことが大事なのだろう。私には専門的な知識は全くないけれど、病院側の対応は正しいものなのだろうという、そんな感じがした。

診察室を出てからタクシーを呼んでもらって、車椅子に座ったままのKちゃんと看護師さん2人と共に、しばらく病院の出口を出てすぐのところで待っていた。

「何かあったら先輩にいろいろ話聞いてもらいなよ、聞いてくれるよ、ねえ?」看護師さんの言葉に、私は「もちろん」と頷く。「今度一緒にご飯でも作ろうよ、Kちゃん普段あんまり寮の調理室使ってないよね?笑」「いっつも適当に済ませちゃいがちで…」「それは良くないよ〜、これからはしっかり食べようね、水分も摂るんだよ」「いいねえ、寮に住んでたら一緒に料理とかも簡単にできちゃうんだ」看護師さんたちが口々に明るくそう言う声が、夜空に吸い込まれていった。

寮へと帰り着いた頃には時刻は深夜2時を過ぎていた。もうあと少しで部屋まで戻れる、と思っていたものの、代金を払ってタクシーから降り、寮のエントランスをくぐって靴を脱ごうとしているうちに、Kちゃんの息がまた荒くなってきてしまった。寮のロビーには深夜にも拘らず恐らく休日であるのを良いことに駄弁っていたであろうKちゃんの同級生たちが複数人いて、しゃがみ込むKちゃんを前に、私は動揺を押し殺してどうするのがKちゃんにとって最善か猛スピードで思考を巡らせた。

「え、Kちゃん?」「大丈夫ですか?」こちらに気がついた後輩たちが、わらわらと駆け寄ってくる。弱っているところを大勢の人に見られるのは誰だって嫌だろう、と思った。「Kちゃん、歩ける?」無理だろうとは感じつつ、一応問いかける。Kちゃんが弱々しく首を振るのを見て、私は「よし、じゃあ私が運ぶわ」と言った。

遠慮するKちゃんの前にしゃがんで半ば強引に背中に乗ってもらい、気合を入れて立ち上がる。このときほど自分の体格の良さと運動部で培った筋力に感謝した日はない。少々騒然とした様子の後輩たちに、「ごめんね、私とKちゃんの靴だけ靴箱に入れといてくれる? n番とo番のところ」と伝え、何フロアか上の部屋へと階段を上がる。2人ほどはそのまま部屋まで着いてきてくれ、扉を開いたり邪魔なものを退けたりと動いてくれた。

無事Kちゃんにベッドに乗ってもらうことに成功し、「何かあったら連絡してください」と言ってくれた後輩たちも部屋を去っていき、2人きりになった。

「とりあえず息吐こう、さっき看護師さんが教えてくれてたみたいに、ゆっくり」
搬送される前に私が意識的に息を吐くよう促していたことは間違っていないようだった。何度もゆっくりした呼吸を繰り返し、様子が多少落ち着いてきた頃合いを見計らって、言う。
「Kちゃん、今晩1人で大丈夫?」
「……ちょっと怖いです」
「だよね、じゃあ私ここにいよっか」
「いいんですか」
「あ、人がいたら気を遣って休めないよ!! って感じだったらもちろん速やかに撤収するけど」
「いえ、いてもらえた方がありがたいです……」
「じゃあちょっと私自分が必要なもの部屋から取ってくるね。すぐ戻る」
「ごめんなさい」
「だから謝ることないって笑」
一瞬だけ隣の自分の部屋へと戻った私は水筒やパソコンをトートバッグに放り込んですぐにKちゃんの元へと戻った。

長い夜だった。Kちゃんは水を飲もうにも手に力が入らず、キャップを全く回せない。少しでも大きく動くとすぐに呼吸が乱れてしまう様子で、お手洗いに行こうにも立ち上がって1人で歩くことができず、私が肩を貸した状態でゆっくりと歩みを進めるのがやっと。頼ってくれてありがたいなと思いながらいろいろと動きつつ、落ち着いている間は床にあぐらをかいてちまちまと大学の課題を進めるうちに夜は明けていき、朝の10時頃になると、昨夜のOちゃんが「見守り交代します」と来てくれた。


結論から言ってしまうと、Kちゃんと私が一緒にご飯を作る日がやってくることはなかった。さらに言えば、数か月後に私が大学を辞めて退寮するまでの間に、挨拶以外にやりとりをすることすら、ほとんどなかった。Oちゃんとバトンタッチしてすぐドラッグストアへと走って手に入れたゼリーや飲み物を届けに行き、ついでに明日の授業に出られる気がしないと不安がる彼女に、もし休むのであればこういう対応を、とアドバイスをし。数日経ってから回復したという報告と共に、お礼とお詫びの品だというお菓子をもらい。それっきりだ。その後数か月、行き合ったときに挨拶をするということの他、関わりは全くなかった。私は大学を辞めるときにそのことを同期にしか告げなかったから、KちゃんやOちゃんからすると私はただ、ある日突然忽然と姿を消した謎の人であるはずだ。

私の方からもっと積極的にKちゃんにアプローチするべきだったのか、時々考える。定期的に話しかけるべきだったのか。実際に予定を聞き出して一緒にご飯を食べるべきだったのか。Kちゃん自身は日頃の様子から察するにとても控えめでどちらかと言えば大人しい人で、学年が上である私にぐいぐいとアプローチしてくるような心意気は、きっとなかったはずだ。私も完全なる内向型で、日頃自分から交友関係を広げようと動くことはほとんどない。今現在付き合いのある人たちも、そのほとんどが向こうから私に話しかけてくれた人たちだ。だから私はKちゃんのことを何も知らない。その後体調は大丈夫だったのか、過呼吸が癖づいてしまうようなことはなかったのかということも、知らない。

ではなぜ人との関わり合いに消極的な私が、Kちゃんのもとで一晩付き添ったのか。助けを求めに来てくれたOちゃんの勇気を無碍にできなかったということも、もちろんある。でも多分、私が付き添いを決意したのは、苦しそうに息をするKちゃんが、かつての自分と重なったからだ。そうでなければ私はきっと、Kちゃんを1人で病院へと送り出していた。


あの夜を含め大学に通っていた間はほとんど寛解していたのだけれど、私は高校生の頃からパニック発作持ちだ。特に高校2年生から3年生にかけて発作が起こる頻度がかなり高くて、3年生の頃のある時期には毎日のように過呼吸の波と戦っていた。

息のできない苦しさ、死ぬんじゃないかという怖さ、人に迷惑をかけたくないと願う気持ち、どれも痛いくらいよくわかる。わかると言ったってその人の思いはその人だけのもので、私はそれを完全に汲み上げることはできないこと、わかるだなんて言ってしまうのは私のエゴに過ぎないこと、全部わかっているけれど、それでも私はあの夜、Kちゃんを1人にしたくないと思ってしまった。

息をしっかり吐くこと、1人きりで発作をなんとかおさめようと足掻くことが多かった高校生の頃の私が、文字通り体得した過呼吸への対処法だ。あの夜、Kちゃんに呼びかけながら、私はきっと同時に過去の私へも呼びかけていた。息、吐くんだよ。焦って吸っちゃうのもわかるけどね、今は吐ききる方が、大事だよ。

大学を辞めて少ししてから、鳴りを潜めていた発作がまた起きるようになってしまった。病院に通うようになって初めて私のそれは厳密に言えばパニック発作ではなくフラッシュバックに近いものだということが発覚したのだけれど、なんとか呼吸を正常なリズムに戻そうと息を吐きながら、ふとした拍子に脳裏をよぎるのが、Kちゃんのことだ。Kちゃんはあの後、大丈夫だったのだろうか。過呼吸が癖づいてしまって、パニック障害に繋がってしまったり、しなかっただろうか。

今は5月だ。1年前のあの夜のお医者さんが言っていたように、そして五月病という言葉があるように、この時期は心理的な負荷を抱えてしまっている人たちがきっと多い。知らずに呼吸が浅くなってしまっている人もきっと大勢いる。そんな人たちが、どうかみんな救われてほしいと、願わずにはいられない。基本的には1人でいることが好きな私ですら発作の孤独には毎度押し潰されそうになっていたし、慣れきってしまっているはずの今でさえ恐ろしくて仕方がない。私にできることは他の人たちに対してはもちろん、自分に対してだってなにもないけれど、これだけは言える。息苦しさは永遠には続かない。パニック発作で死ぬことはない。真に1人きりの人間なんて、どこにもいない。


とりあえず深呼吸、しよう。しっかり息吐いてね。吐かないことには吸えないからね。きっといつか、全部大丈夫にしようね。


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