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誕生日いたい

少し前に21歳になった。

どうせ近いうちにいろいろとどうしようもなくなって死ぬんだろう、大学生活に適応できるはずがないんだからきっと19かそこらで死ぬんだろう、そうでなくともどうせなら20で終わりにするのがキリが良い、そんなことを考えていた数年前までの私にとっては結構な大事件だ。

去年20になったときも変な感じがしたけど、21ともなるといよいよ人生のボーナスステージに突入したような気がしてなんだか実感がない。生きるつもりのなかった世界を、いま私は生きている。ボーナスと言ったってそれは純度100%の喜びで構成されたものではなく、紛れもなく私の惰性によって手に入れてしまったもので、私はそれを存続させるためにこれからも努力し続けなければならない。

死にたいとは言わないけど、生き続けていたいと思ったことなんてない。「死んだらまずい」はまだわかるけど、「生きていたい」ってどんな感覚だろう?

自分が生き続けていることを否が応でも実感させられる誕生日、正直好きではない。前後は毎年必ず感情が揺れる。「誕生日おめでとう」ってなんだ、何にもめでたくなくないか。子どもの頃「久方を祝うんじゃなくて私に感謝してよ」と父に迫っていた母を思い出す。本当にそうなのだ。私は何もしていない。母が私を産んだのであり、祝われるべきは母であるはずだ。さらに私は産まれるまでずっと逆子で、両親はそのことを踏まえ私を「産まれる前からひねくれ者」と評する。逆子の経膣分娩はリスクが高いそうで、私は帝王切開で生まれた。日本で初めて帝王切開が行われたのが江戸時代であることを知ったとき、私の命はそれ以前であれば助からなかったのかもしれなかったのかとぼんやり思った。

どうしようもなさすぎる私なのに、毎年誕生日に連絡をくれる人が何人もいる。私の誕生日は必ず夏休み期間で、人と顔を合わせる機会が少ないことがせめてもの救いだけど、インスタやLINEの通知が増える度にいたたまれない気持ちが増してくる。DMの通知が10件を超えることなんて1年を通してこの日しかない。素直に喜ぶことのできない自分を呪いながら必死に気持ちを奮い立たせて返信をする。今年も頑張って全員2ラリー分くらいは言葉を交わした、でもそこで糸が切れてしまって、当日から少し時間が経った今日まで何人ものメッセージを開かずに放置してしまっている。自分が最低なことをしていることは自分が1番わかっている。誰もそんな深く考えてお祝いメッセージを送ってきてくれているわけではないことはちゃんとわかっているのに、私が祝えない私を他の誰かが祝ってくれていることを受け入れることがどうにも難しい。なんで簡単なメッセージひとつ打つことにこんなに気力を持っていかれるんだろう。

ねえみんなってどうやって誕生日乗り越えてるの??

同じようなことを思っている人は絶対に他にもいるだろうと思ってそれっぽい言葉で検索をかけたら、「誕生日クライシス」なるものを解説しているスピリチュアル系のサイトに誘導された。誕生日前後は人生の軌道を修正しようと宇宙からのメッセージが届くことで精神的に不安定になるとかなんとか。ごめん、信じない。

程度はさておき母が少なからずスピ気味の人だったせいか、そういう事柄に対してあまり良い印象を持っていない。小学生の頃までは毎月新月の日に願い事を10個書かされたりだとか(「〜〜できますように」とかいう典型的な願い事ではなく「〜〜できます」と断定形で書く決まりだった)、私の身代わりになってくれるというパワーストーンのゴテゴテした腕輪を四六時中着けさせられたりだとか(アクセサリーを容認しない日本の学校に通っていなくて本当によかった)、当時から比較的現実主義だった私にはどうにも不可解なことをさせられることが多かった。あとは私と父の誕生日は組み合わせ的にソウルメイトになるようにできているから仲良くしなきゃいけないみたいなことも言われたな。そんなことがあってたまるかよってなあ……。宇宙が全てをコントロールしている、と考えることで救われる人がいることは理解できるけど、私はそんな得体の知れないものにコントロールされているとは思いたくないと思う方の人間だ。宇宙の力に頼らずとも、自分の目に見えるものを使っていろんなものを乗り越えたい。できるのかどうかはさておき。

なかなか後ろ向きなことばかり並べ立ててしまったのでちょっと笑い話でも挟もうか。スピ系の話の中で画数占いは比較的世間に受け入れられていると思うんだけど、うちの両親も御多分に洩れず、私が産まれる前に姓名判断の本を買ったそうだ。したがってもちろん私の名前は名字とのバランスと画数の縁起の良さによって決められた。問題だったのは、私が産まれるその瞬間まで男だと思われており、その姓名判断の本が男の子用だったということだ。無論私が女だとわかった後に急いで女の子用の名前を考え直したそうだが、参考にされたのがその本であることに変わりはなく、私の名の画数の良さというのは男であった場合にのみ適用されるらしい。意味がなさすぎて笑ってしまう。おまけに今の私の名字は生まれたときの名字ではない。私の今の女としての名前を姓名判断するとどうなるか、知ろうとも思わない。ちなみに男としての私の名の画数は「みんなの中心に立つ」的な意味を持っているそうで、幼少の頃はともかく今現在その逆を行っている身としては両親に対し申し訳ない限りである。

オーストラリアに来てから知り合った人たちの中に、私が誕生日を伝えている人は1人もいない。当然今年は直接は誰にも祝われなかった。だから穏やかに過ごせると信じていたのに、思いのほか気持ちがダメだった。現にかれこれ3週間近く低空飛行を続けている。何が悪かったんだろう、去年も一昨年も当日は趣味の現場に全振りできるように予定を立ていたから、そことの落差かな。でも他のことで気を紛らわせなきゃならない誕生日っていうのもなかなか嫌だね。

とりあえず誕生月が終わるぞ!! という気持ちで書き殴りました。ここから調子を取り戻していけたら良いんだけどな。私と同じ8月生まれの人たち、みんなおめでとう。不本意かもしれない節目でも、迎えちゃったもんは仕方ないよね。もうちょっとだけ、生き延びてみようね。

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