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違いというのは、違っているということ

アレクサンダーテクニークを学び始めた頃。私はこのステキなワークを、教えられる人に早くなりたいと思っていた。教師養成のトレーニングコースは卒業するまで平均4年。平均よりも早く卒業できるのが優秀な先生のような気がしていた。努力して、他の誰よりもいい先生になりたいと思っていた。

10年前の自分を思い出してみると、私はそんなふうに思っていたんだなあ…と、当時の自分をなつかしく思う。結局、卒業するのに4年どころか7年もかかり、あれほど早く教えたいと思っていたのに、今は教えることに対してとても慎重な自分がいる。

以前の私は、東に肩こりの同僚がいればレッスンを勧め、西に腰痛の友達がいれば「こんなワークがあるよ」と宣伝し、南に膝を痛めた人がいれば「役にたつから」と言い、北に体の硬い人がいればストレッチのコツをアドバイスし。ほかにも、道行く人の歩き方を観察して、ここを変えれば改善するなと分析してみたり。

でも、そういうの、いつの間にかしなくなった。するときは、そういう自分に自覚的になった。それはなんていうか、他人に向けていた目を、どっちかというと自分に向けるようになったから…かな。まわりで問題が起きたときに、相手をどうこうしようと思う前に、自分はどう感じているか。どうしたいのかを考えるようになったんだと思う。

この数年、センサリーアウェアネスという、感覚をひらくワークショップに毎年参加している。単純な動きの繰り返しの中で自分の身体を感じてみたり、目を閉じていろいろなものに触れてみたり、明るい浜辺で日の光や風を感じてみたり。シェアリング・タイムで参加者が話すことは本当に色々で、自分と同じように感じた人もいれば、まったく違う体験をした人もいる。感じ方は一人ひとり違っていて、そこには良いも悪いもない。

「自分はこんな風に感じたけど、あの人はこんな風に感じた。それはいいんですか?」

あるシェアリングの後に、ほかの人との感じ方の違いに私が引っかかりを感じて質問した。そのとき、場をリードするジュディスに穏やかな口調でこう言われたのだった。"Difference is difference."。私はちょっとポカンとして、その言葉を何度か口の中で繰り返した。そして突然その意味が腑に落ちた。

「違いというのはね、違っているということなのよ」。

違いを良い悪いで考えてしまう自分の癖に気がついた瞬間だった。

その言葉は漢方薬のように、私の人生にじわじわと効果をあらわしたのかもしれない。ふと気がつくと「人よりも優れていなければいけない」という思いが、前よりも顔を出さなくなったように思う。だって、違いというのは、違っているということだから。それよりも、自分は今どう感じている? どうしたいの? ――良い悪いという基準を失くしたら、自分の感覚が大切なものになっていった。

以前の私は「困っている人を助けてあげたい」という思いがとても強かった。それはいいことだけど、どこかで「人よりも優れていなければいけない」という考えと結びついていたのかもしれない。

アレクサンダーテクニークのトレーニー時代、教える練習の中でよく言われたのは「自分の面倒を見る」ということだった。私はそれがなかなかできなくて、いつも自分そっちのけですぐに相手に向かって行ってしまっていた。とても時間がかかったけど、この頃、ようやく当時言われていたことが分かってきた気がする。自分自身に気づきを向けることは、他者との適切な境界線を引くことにつながっているのかもしれない。

明日は秋分の日。夕暮れの空は静けさに満ちていた。

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