笑いに暴力は不要か? 暴力のない笑いはあり得るか? ハリセン騒動に思う 

インターネット、おそらくTwitterかなんかを震源として「ハリセンがコンプラNGになってしまった」というテーマが多少盛り上がっているようで目にした。

引っ叩いて笑いをとるのが社会的によくない、とかなんとかそういう流れだろう。叩くのは即ち暴力である。要するに暴力をこの世界から無くしていこう、という流れの一環と考えられる。

俺はこの運動に反対する。というか違和感がある。

そもそも、日本国の法律では、たぶん概ねの暴力を禁じている。それで十分じゃないかと思うのである。

そして不思議に思う。笑いに暴力を用いるのはいけないことだ、という議論において、まあ俺の見識があまりないのが原因か知らんが、「我が日本国においては他人に暴力を振るうと禁固だか懲役だか罰金だか知らんが罰せられる、つまりいけないことだと法律にて規定されている。だから暴力をもって笑いを生み出すことはこれもまたいけないことである」と表明する人を見たことがない。

多くは「私が不快である」「いじめを助長する」など、ひろゆきでなくても「あなたの感想ですよね?」と言わざるを得ない発言をしている。要は気に食わないから笑いと暴力の関係を断とうということだ。暴力にも色々あるが、これも暴力の一環ではないか。だいたいどこまでが暴力なのか。

そもそも法律で禁止されているのに、なぜ暴力が未だ存在していて、それの是非が議論されているのか。暴力が面白いからだと考える。ここでの面白いというのは、ワッハと笑うだけでなく、なんとなく惹かれる、魅力がある、気分がよくなる、居ても立っても居られない感情を覚える、とかそんな意味合い。

面白いから、なくならない。でも実際に行使するのは当然法律で厳重に制限されているから、仕方ない、虚構という建前のもとで再現する。テレビ番組もそうだし、小説や漫画、映画などもいうまでもない。これを禁ずるのは、そうしたフィクションと現実との境が分からん、と言ってることと同義ではないか。

だいたいにおいて、お笑いにおける暴力の何が悪いのか。今日、笑いの基本的なパッケージといえば漫才やコントだろう。そのいずれも、オーソドックスな形では「ボケ」と「ツッコミ」に分かれて演じられる。ボケが間抜けなことをしたり言ったりしたのを、ツッコミがいなしたり、あるいはそのときに引っ叩いたり蹴飛ばしたりする。それが許されないのであれば、実に迫力のないネタになる。

お笑いの原初の形、かどうか分からないけど古典としては落語や狂言がある、これは殴る蹴るはしないで成り立ってるじゃないか、という意見もあり、それはそうだ。それはそうなのだが、ではその作品の中に暴力的な要素が微塵もないかというと、そんなことはなかろう。いや、全く落語や狂言に触れたことがないのでわかんない。あくまで印象。

もっとも手近に、人体に笑いを起こすのはくすぐることであり、不思議なのは自分でくすぐると微塵も笑えない。他人にくすぐられると、げらげら笑う。つまり笑いは自発的には起きず、他者の力を必要とする。自分ではどうしようもない力。これすなわち暴力ではないか。

なんとなく笑いと暴力は不可分なんじゃないかな、と思う。程度はあるけど。そしてここまで潔癖なまでに暴力を禁じていく社会に、果たして笑いは残るのか、とか思ったり。

(文責:ぺてん師)

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