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いきものはみんな

  わたしは今夜、道にてミミズを見下ろしていました。彼は、わたしがいままで見てきたミミズのなかで最も速いスピードで一目散に、無我夢中に、一心不乱に一方向に進んでいた。彼の生涯は不幸だ。ミミズは不幸だ。いきものはかわいそうだ。
 一方向にまっすぐ急ぐミミズは、そうではないミミズと同様に、まっとうに生きているという点で美しく感じられた。加えて、定まった方向を目指す体全体の動きがどうにもひたむきなものに見え、なんだか応援したくなる。ところで彼の動きを人間の世界からみれば、車道を横切る動きです。タクシーが一度やってきて、わたしは「やばいぞ」と焦りました。咄嗟にミミズをかばうように道にややひろがって立ったわたしをタクシーは、迷惑そうに避けていった。
 生物は不幸だ。つまり、心地いい環境を求めることよりも、不快な情況を避けるほうが生存戦略として優れている。そのせいで、生きているものはみんな、不愉快な出来事への感受性が豊かである。もちろん人間もそうで、これからはじまるあなたの一日に一体どんなハッピーな出来事があるのか想像してみてください。発揮、達成、当選、賞賛・・・(実際ハッピーな気分をもたらすのは、そんなおおきな出来事じゃないとは知りつつ)。次に、あなたの一日に起こりうる不快な出来事を想像するとどうでしょうか。道に立つ誰かに睨まれ、虫がメガネにぶつかって、腹を壊したんじゃないかと心配な時間を過ごし、恥ずかしい思い出を不意に思い出して外は暑い。遅刻、売り切れ、恫喝、訃報、発注ミス、不機嫌な同僚、道を塞ぐ酔っ払い、集中豪雨、冤罪、予定通りに進まない、えっもうこんな時間!
 これは恣意的にすぎる例示だとしても、比べると、不幸のほうが想像しやすい気がしませんか。少なくとも私はそうです。不愉快を想定したり、察知する能力に長けている予感がする。生き物は怒りたがっている。
 そもそもどうして居心地の悪さに過敏であるのかというと、それは快適でありたいがためにそうなのだ。心は平和を求め、なればこそ体は怒りを求めている。体は死に向かうのに、心は死を嫌がる。かなしいパラドックスです。犬にも鳥にもトカゲにも虫にも、上機嫌なひとときくらいあるだろう。あるいは基本的には上機嫌なのかもしれない。でも注意力の精度があがる対象は不機嫌界隈についてで、もし現況とは関係のないハッピーさを認識のなかで想定・保持したいならアクチュアルに感じていること以外の主観を想定・保持する必要がある。可能にするのは(広い意味で)言語能力である。抽象化と配置の能力である。その都度ごとに生起する周囲の状況への対応としての生では説明できない抽象的な構想の体系全体そのものを確認もしくは修復・更新し続ける。
 見下ろすミミズのひたむきな前進に心を痛め、やってきたタクシーの進路を妨害し、ほっとしたのもつかの間、すぐに別のタクシーがやってきてそいつを轢き潰した。体の端をタイヤに踏まれてそいつはのたうちまわる。のたくるミミズは、なんていうか、とても痛そうだった。わたしは、「こいつの臨終を、俺ひとりが見守っている」という自覚を頭のなかでなぞり返し、気を取り直して歩きだします。
 ちょっとすると、またミミズに出くわした。さっきのと同様の方向にむかって車道を横切ろうと一心不乱に進んでいる。ミミズ的に魅力ある方角、あるいはミミズ的にはちょっと勘弁してもらいたい方角があるということなのかもしれない。わたしはミミズではないから、その真相を知ったところで、彼らを突き動かす衝動みたいなもの(あるとすればだが)を感覚でとらえることはできない。


  ミミズ的に魅力ある方角、あるいはミミズ的にはちょっと勘弁してもらいたい方角はあるのか。あるにはあっても、全部のミミズは同じようにしか動けないんだろうか。
  夜の電灯に集まる虫たちがいるが、いわゆる「走光性」という性質は、電灯の発明以前にもあったんじゃないかと思う。この性質を持った虫たちが、じゃあ、電灯の発明以前の晴れた夜は、いっせいに月や星を目指して飛び立っていったはずはない。光や火に飛び込んでいくような性質は所持していたにせよ、ほかの性質やほかの条件とのバランスのなかで、行動は決定されるはず。ある性質だけが際立って発揮される、みたいな特別な条件じゃないとき、すなわち「フツー」のとき、は、いろんな性質が複雑に組み合わさって表にでてくる。
 生来的に備わった性質のおかげでどうしても気にかかってしまう情報が生き物ごとにあるとはいっても、複雑な外部環境に対し、結局どんな行動にでるかは個体ごとに委ねられている。
 なんかいいにおいがする。気になる!ってとこまでは「遺伝子のせい」。その後の反応の仕方やタイミング、間合いの詰め方、テンションの上がり具合などは「本能の指示どおり」と割り切ってしまうにはあまりにも情動的にみえる。犬だって鳥だってトカゲや虫も、考えてみれば植物だって、特定の絶対的な基準ひとつで白黒をつけたりはしない。生き物いち個体のひとつひとつの行動が具体的で個別的で、独立した身振りである以上、その個体がそのような道筋を辿った(選択した・判断した)理由・根拠はその個体にあって欲しい。けど、電灯に虫が集まるみたいな、どうしようもないこともある。


 生き物は不快を受信しやすいようできていて、その感受性が睨んでいるものは「死」でしょう。もし、恐怖感の根拠は死の気配の感受なのでしたら、生き物のすべては恐怖感でつながっているのかもしれない。わたしたちをつなげる恐怖感。恐怖は学習によって細やかになっていくような情緒には思われない。根源的で生理的なものです。虫を笑わせたり、鳥を泣かせたり、蟹を説得することはできなくても、こわがらせることはできる。そうなってくると、カンブリア紀以前の生き物(生き物が生き物を食べる以前の世界)は、こわい、を知らないのかもしれない。まあ、ジャンルとしてのホラーと、実際に感じる恐怖感とは全然違うから、猫のためのホラー、リスのためのホラー、というものは作れないかもしれません。わたしは猫やリスではないから、「かもしれない」としかいえない。

(記・2017年7月)

 

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