短編小説『 読書家の夫婦 』

ダイニングの椅子で向かい合って小説を読んでいた妻が、パタンという音と共に深いため息をついた。

「ダメね。私、不感症になっちゃったんだわ。」

俺は手元のミステリ小説から目を離さず、ソファの背もたれ越しに生返事をする。
今、ちょうど良いところなんだ。

「ねえ、ちゃんと聞いてよ。私が2年前くらいに読んだ小説、あったじゃない。ほら、“蟻がナントカ”っていう。」

「“蟻が溺れた日”?」

「そう、それ。」

彼女は満足げに頷きながら席を立ち、リビングに居る俺の隣に沈み込んだ。
そのまま真っ直ぐこちらを見つめる瞳に観念して、未練がましい手つきでゆっくりとしおりを挟む。
意気揚々と真相を語り始めた探偵も、まさかここで待ったをされるとは思わなかっただろう。

「すごかったわよね、あのお話。途中まではもう、残酷で、読むのをやめてしまおうかと悩んだけれど。でも、最後まで読んだときの、あんなに素晴らしい感動は初めてだったわ!」

「でもね……あれを読んでから、私ダメなの。どんなに多くのお話に触れても、心がちいとも動かないわ。今読んでるこの小説、これだって本当に面白いのよ。なのに……どうしてか満たされないの。」

先ほどまでウキウキと楽しそうだった瞳は次第に翳り、はあ、と吐息をこぼしながら俯いて小説を開く。

「ミステリへの不感症ってわけかい?そりゃあ面白い。君、アッチの感度は上々だというのにな。」

「ちょっと、お父さん!」

抗議の声とともに顔を上げた奈津子が、キッと睨んでくる。
随分熱心に本を読んでいたもんだから、軽口も耳に入らないと思っていたが、甘かったようだ。

「悪い、悪かったよ。気にせずどうぞ続けてくれ。」

「もう……やめてよね、恥ずかしい。」

全く、と軽蔑の声を出しながら、彼女の視線はまた手元の本へ向けられた。

「女性はデリケートで難しいもんだな。で、今は何を読んでるって?」

一緒になって覗き込んだそれは、数ページ読んだだけでトリックが分かる、大した捻りのない推理小説だった。
なるほど、妻の瞳が物憂げだったのにも納得だ。

作品の良し悪しは別として、彼女はすっかりドンデン返しの虜になってしまったのだろう。
ならば確かに、トリックを暴いてハイ終了という素直な結末では、紙を捲る度に膨れ上がった“超展開”への期待が裏切られるのも頷ける。

「君ね、君が求めているのはいわゆる“叙述トリック”ってやつだよ。刺激的だが、自然にそれと巡り合うのはなかなか難しいんだ。」

「へえ、トリックにも呼び方があるのね。その、叙述?というのは、どういったトリックのことを言うのかしら?」

純粋な目でこちらを見上げる彼女は、まるで物を知りたての子供のようだ。
思い返せば、今となっては立派な大人になった奈津子も、昔はこんな風にあどけない顔をしていた時代があったな……なんて、柄にもなく感傷に浸る。

「……ねえ、また変なこと考えてるんでしょう。」

つい無言になった俺に対して、訝しむような声色で奈津子が問いかけてくる。
ああ、女の勘というのはどうしてこうも鋭いのだろう。
確かに奈津子には俺の持っている小説を好きなだけ読ませてきたが、彼女の鋭い感性は生まれ持ったもののように思えた。

「い、いや、別に……すまない、叙述トリックの話だったな。簡単に言えば、“ドンデン返し”のことさ。まぁ、言葉で説明するよりも実際に体験する方が分かりやすいだろう。」

「体験?」

「そうだよ。なあ、奈津子?」

俺はそう言うと、ダイニングの椅子に座って本を読む彼女に笑いかける。

「……そうね。ねえお母さん、お父さんの言ってる叙述トリックとは何か、分かったかしら?」

話を振られてキョトンとする瞳の顔を見ながら、クスクスいたずらっぽく笑った奈津子の表情は実にあどけなく、23歳になってもやはり俺たちの愛らしい娘には違いないな、と感じさせた。

 
 
 
 

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私の大好きな「叙述トリック」を、それを用いた短編小説という形式で楽しく綴ってみました。
(小説だけだと #とは タグの規約に反するかも?と思い、追記しておきます……!)

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