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【大乗仏教】後期中観派の中核3

下の記事の続きになります。

後期中観派の中で、より中観派的な立ち位置のシャーンタラクシタらは一般理解の立場において、「外界の存在を否定し、心(内界)のみの存在を肯定」しました。即ち、唯識派の立場を一般理解の立場で認めたものの、最高の真実としてはその心(形象だけでなく照明)の実在性をも否定したのです。真如(真理)とは「心の照明をも超越した絶対的な空」としたのです。

しかし、後期中観派の中で、無形象唯識的な立ち位置のラトナーカラは、シャーンタラクシタの説に異論を唱えました。彼は、この万物の根源たる「絶対の空」というものを、大乗空思想の原点である般若経典の「純一清浄なる空」「浄く輝く心」に立ち戻って考えるべきだとしたのです。シャーンタラクシタの説く「絶対の空」というのは、結局「純一清浄に光り輝く心=照明」に合一した境地での視点を示しているに過ぎないというのです。

1段階目:内界(心=六識)と外界(物=六根・六境)=十八界
アビダルマ哲学の十八の範疇、ある限りのものを対象とする段階

2段階目:六識(六根と六境は六識の表象)
ありのままの真理である唯識を対象とする段階

3段階目:末那識が阿頼耶識を見る視点
真如(光り輝く心=照明)を対象とする段階

4段階目:阿頼耶識の中心と合一した視点
無顕現の段階

ここまでは前回までの内容ですが、「絶対の空=照明(光り輝く心)=阿頼耶識の中心」という形で、まとめられていきます。即ち、大乗仏教の五位における「加行道」の「四善根」は次のようになります。(加行道は菩薩十地の予備段階でもあるので、「信解行地」とも言われます。)

煖位:
主観(内界)という本体、及び客観(外界)という本体はないことについての智の光が少し明らかになった段階。(唯識の三性論における遍計所執性を克服しはじめた段階といえます。)

頂位:
上記の智の光が明瞭度を増し、客観(外界の対象)というものは六識(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識)の中に存在するものであり、外界とは認識における表象に過ぎないことを覚ります。(唯識の三性論における依他起性の初段階といえます。)

忍位:
末那識に安住し、六識への執着を離れます。形象ある心のみであるという真理が直観される段階です。(唯識の三性論における依他起性の最終段階といえます。)

世第一法:
阿頼耶識の中心に安住し、主観(末那識と六識)と客観(六識内の表象)という形象への執着を離れます。光り輝く心のみであるという真理が直観される段階です。(唯識の三性論における円成実性を直観した段階といえます。)

主観と客観という形象の覆障を捨て去ると同時に、直ちに菩薩十地の初地である歓喜地に入ります。この時点で、阿頼耶識・末那識・意識・前五識の大部分の領域は、完全ではないものの四智(大円鏡智・平等性智・妙観察智・成所作智)へ転換しているのではないかと思われます。歓喜地に達すると、五位の見道へ入ったことになり、光り輝く心(法界)を直観して、そこに安住する菩薩大士は続けて修道にあたる第二地から第十地へ入っていきます。そこで、衆生を教化・救済する術の数々を習得しながら、阿頼耶識の中に残った煩悩・習気の残りカスや菩薩行への執着を徐々に断じていき、仏地(如来)へ至るとします。

上の記事で、「華厳経」内で説かれる菩薩十地を説明しています。「華厳経」の菩薩十地では、自利修行と利他修行を同時に進めていく方法であり、ここでの入り方とは多少異なります。修道の入り方が一通りではない点は大乗の五位、説一切有部の五位ともに共通していると言えます。

四善根は加行道(信解行地)の後半に該当しますが、次回の記事で前半と、加行道の前段階である資糧道を見ていきたいと思います。