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【大乗仏教】唯識派 三性説⑤

弥勒(マイトレーヤ)の三性説の説明が長くなってしまいましたが、今回は無著(アサンガ)の著書である『摂大乗論』における三性説を見ていきます。

無著(アサンガ)著『摂大乗論』における三性:
・その中で、依他起性は何かと言えば、阿頼耶識を種子とし、虚妄分別によって集められた表象の相である。~
・その中で、遍計所執性とは何かと言えば、外界の対象は存在しないにもかかわらず、ただ表象のみであるものが、対象そのものであるかのように顕現したものである。
・その中で、円成実性は何かと言えば、依他起性そのものにおいて、対象としての相(遍計所執性)があらゆる意味で無いということである。~
・もし、ただ表象のみが対象として顕現している所依が、依他起性であるならば、そのことがどうして依他起と言われるかと言えば、自己の熏習の種子から生じているから、それ故に、縁という依他起である。生じ終わってから、一刹那以上長くは自ら存在することができないから、依他起であるといわれる。~
・依他起性は何種類に分けられるかと言えば、要略して二種である。熏習の種子という依他起と、清浄と雑染に関して本性上は成立していないという依他起とである。これら二種類により、他に依ることによって依他起である。~
・『阿毘達磨(大乗)経』において、世尊が「法は三つである。雑染分に属するものと清浄分に属するものと、その二分に属するものである。」と説いたのは何を意図して説いたのかと言えば、依他起性の中に遍計所執性があることが雑染分に属する。また依他起性において、円成実性があることが清浄分に属する。依他起性そのものがそれら二分に属するものである。このことを意図して説かれたのである。
・それ故に、虚妄分別の表象である依他起性は二分であるのであって、金を蔵している土の要素の如くである。

「佛教大学仏教学会紀要10号20020325『摂大乗論』における依他起性について」より引用

・依他起性(雑染と清浄の二分)
阿頼耶識を種子とし、虚妄分別によって集められた表象(相分)です。阿頼耶識という種子から生じた十一種の表象が説かれますが、これらは阿頼耶識の種子から生じた六識の内部にある六根・六境・器世間といった相分と同義と考えられます。

・遍計所執性(依他起性の雑染分)
外界は存在せず、全ては阿頼耶識を種子として生じた六識内部の表象に過ぎないにも関わらず、あたかも外界に実在する対象のように顕現したものです。

・円成実性(依他起性の清浄分)
依他起性において、遍計所執性が存在しないことです。

○解深密教、及び弥勒と無著の三性説相違

『解深密教』、弥勒、無著の三者において、三性の解釈が異なることが分かります。『解深密教』の三性解釈が唯識派の解釈と異なる点はよく知られているので、あまり重要ではありませんが、弥勒と無著の解釈の違いは興味深いです。

・遍計所執性
 解深密教:現象の背景に本体(自性)を、言語・概念によって妄想したもの
      =特質なし=依他起を汚染させる
   弥勒:本体としての主観と客観
      =実在しない
   無著:本体としての客観
      =依他起の雑染分

・依他起性(虚妄分別)
 解深密教:縁起によって生じる(存在する)もの
      =雑染を特質とする
   弥勒:阿頼耶識の種子によって生じる阿頼耶識と七転識(見分・相分)
      =迷乱の虚妄分別
   無著:阿頼耶識の種子によって生じる七転識(六転識)内の相分
      =虚妄分別によって集められた諸表象
      =雑染と清浄の二分(二分依他)

・円成実性
 解深密教:清浄の特質
   弥勒:本来清浄+表面雑染(外来煩悩)
   無著:依他起の清浄分

 解深密教:遍計所執を遍知→依他起の滅
   弥勒:依他起の滅→外来煩悩の滅
   無著:依他起中の遍計所執の滅

弥勒(マイトレーヤ)の三性の解釈では、最終的に阿頼耶識が滅せられるのに対し、無著(アサンガ)の三性では最終的にも阿頼耶識が滅せられるのではなく、それを汚している遍計所執性が滅せられることになります。

弥勒(マイトレーヤ)の唯識思想は、後に「無形象唯識論」と呼ばれるものの原型であり、無著(アサンガ)の唯識思想は後に「有形象唯識論」と呼ばれるものの原型ではないかと、筆者は考えています。ただし、無著(アサンガ)の唯識思想がそのまま後の(世親以後の)「有形象唯識論」と同じであるわけではありません。あくまで認識論における考え方が「有形象唯識論」側だったのではないかということです。

弥勒(マイトレーヤ)と無著(アサンガ)の間には認識論的な見解相違がありますが、無著(アサンガ)は弥勒(マイトレーヤ)を師としており、無著(アサンガ)の唯識思想は弥勒(マイトレーヤ)の唯識思想が元になっている点は間違いないと思います。即ち、三性の解釈において、無著(アサンガ)があえて、弥勒(マイトレーヤ)の見解と自身の見解を大きく相違させる理由が見当たらないのです。やはり、上座部仏教出身であり、アビダルマ的な認識観を持っていた無著・世親兄弟が、弥勒の無形象唯識論的な唯識思想を違う形に解釈してしまったことが有形象唯識論の原型になった、と考える方が自然のように思えます。即ち、弥勒と無著は別人ではないかということです。

「弥勒菩薩は本当に天界から降臨して、説法をしていた」という説も個人的には面白いと思います(笑)。