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【大乗仏教】唯識派 三性説③

ここまでの内容を簡単にまとめます。

・遍計所執性
存在しない自性。言葉や概念によって構想(遍計)された、本体としての主観と客観という存在形態。
・依他起性(虚妄分別)
幻のように在り方で仮に存在する自性。(阿頼耶識)縁起により生じた、虚妄なる主観(能取)と客観(所取)という存在形態。
・円成実性
真如であり、真実に存在する自性。無常な煩悩の塵垢に覆われているが、本質的には清浄・恒常な存在形態。「法身」「如来蔵」「光り輝く心」「照明作用・照射作用」の異名を持つ。

弥勒(マイトレーヤ)の『大乗荘厳経論』では「見分と相分」について、「二の迷乱」となっていましたが、『中辺分別論』における「二つのもの」とは「阿頼耶識(識)とその顕現である見分・相分(四通りの対象)」を示していると筆者は考えています。

そして、注釈者である世親(ヴァスバンドゥ)はおそらく、二つのものを遍計所執における主観・客観のことであると理解していると思われ、注釈に矛盾が生じているように感じられます。

○中辺分別論

弥勒(マイトレーヤ)の著書である「中辺分別論」に三性説が詳しく説かれています。弥勒が説く詩頌に世親(ヴァスバンドゥ)が注釈を加えています。

『中辺分別論』の三性より
弥勒の詩頌:
虚妄なる分別は存在する。そこに二つのものは存在しない。しかし、そこ(虚妄なる分別の中)に空性が存在し、その(空性の)中にまた、かれ(虚妄なる分別)が存在する。

世親の注釈:
ここで、「虚妄なる分別」というのは知られるものと知るものとの二者の対立を分別することである。「二つのもの」とはこの知られるものと知るものとである。それら二つのものは究極的には実在しない。したがって、空性とはこの虚妄なる分別が知られるものと知るものとの両者を離脱している状態である。「その中にまた、かれが存在する」とは空性の中に虚妄なる分別が存在することである。このようにして、或るものが或る場所にないとき、後者(即ち、或る場所)は前者(即ち、或るもの)としては空である、というように如実に観察する。他方、また、このように空であると否定された後にも尚否定されえないで何らか余ったものがここにあるならば、それこそ今や現実なのであると如実に知るというように述べられている空性の正しい相がこの詩頌によって明らかに述べられた。

弥勒(マイトレーヤ)の最初の誌頌は以下のような意味になると筆者は考えています。

虚妄なる分別(依他起)は(幻の如く仮に)存在する。そこに二つのもの(阿頼耶識=識と七つの転識=四通りの顕現=見分・相分)は(実在として)存在しない。しかし、虚妄なる分別の中に空性(円成実)が存在し、空性の中にまた(空性の照明作用に照らされ)、虚妄なる分別が存在する(浮かび上がる)。

世親の注釈は【他方、また、このように空であると否定された後にも尚否定されえないで何らか余ったものがここにあるならば、それこそ今や現実なのであると如実に知るというように述べられている空性の正しい相】と続きますが、これが円成実としての空性を指します。

筆者はこのように考えたのですが、『中辺分別論』における「二つのもの」をどのように解釈するかについては、幾つかの説があるようです。

【筆者の考え】
 ①知られるもの=相分(所取)と見分(能取)
 ②知るもの=識(阿頼耶識)
 ③虚妄分別=知られるものと知るもの両方

しかし、上記の①を所取・②を能取とする説があります。また、②を虚妄分別とする説、更には①を二つものとする説、遍計所執を二つのものとする説、①を遍計所執かつ②を虚妄分別とする説もあります。どの説が正しく弥勒の三性を説明できているのかは分かりませんが、とりあえず、筆者はこの経典の後半部分も踏まえ、上記のように考えましたので、次回の記事もこのまま話を進めていきます。