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【大乗仏教】唯識派 三性説②

今回は弥勒(マイトレーヤ)の著書である『大乗荘厳経論』の三性説について、お話していきます。ここから三性の解説が唯識派に特徴的なものになっていきます。

『大乗荘厳経論』における三性より:
・真実とは、絶えず二を離れたものであり、迷乱の依り所であり、あらゆる点で全く言語表現できないもの、また無戯論の性質を持つものである。各々、知られるべき、断じられるべき、また清浄にされるべきで、本性として無垢なるものと考えられ、虚空・金・水のように煩悩から清浄となるものである。~
・幻のように、虚妄分別のあり方が証明される。幻事のように、二の迷乱のあり方が説明される。
・そこにおいて、その本質が無いように、そのように勝義はあると考えられる。一方、それが認識されるように、そのように世俗諦はある。~
・そこにおいて、有は無ではなく、無はまさに有ではない。そして、有と無との無差別が幻等について規定されている。~
・言葉で言う通りに対象を想起することの因相と、その習気と、その習気からもまた対象が顕現することが遍計所執相である。
・名称に従って対象か、または対象に依って名称が顕現することは、実に非存在なるものの分別の因相なる遍計所執相である。
・三種(器世間・六境・六根)と三種(末那識・前五識・意識)とに顕現する、所取・能取を特徴とする虚妄分別は実に依他起の相である。
・無であること、かつ有であることであり、有と無とが等しいことであり、非寂静かつ寂静(本性清浄)であり、無分別(無戯論)であるものは円成実相である。

・遍計所執相(遍計所執性)
=絶えず二を離れたもの
=遍く知られるべきもの
=言葉や対象に依って顕現しただけの名称なので非存在

・依他起相(依他起性)=虚妄分別
=二の迷乱:迷乱の依り所
=幻のようなもの
=断じられるべきもの
=所取(器世間・六境・六根)・能取(末那識・意識・前五識)という二を特徴とする虚妄分別

・円成実相(円成実性)=空性
=あらゆる点で全く言語表現できないもの、無戯論の性質を持つもの
=本性として無垢なるもの、虚空・金・水のように煩悩から清浄となるもの
=無かつ有、有と無が等しいこと、非寂静かつ寂静、無分別

※無かつ有、かつ有と無が等しいとの表現を置いているのは弥勒(マイトレーヤ)が般若経典の空性と、如来蔵系経典の空性を何とかまとめようとした形跡が見られます。円成実自体は有ですが、それを覆う煩悩(潜在煩悩)は無です。

○弥勒の三性とは
『解深密教』の段階では、依他起は漠然と「諸法の縁起」でしたが、ここでは「阿頼耶識縁起」となっています。唯識派にとっては、全ては「識」なので、諸法の縁起=阿頼耶識縁起となります。

上記の「仏教認識論」の記事で説明した例をもとに、弥勒の三性を解説すると、下図のようになるかと思います。

・主観と客観をそれぞれ固有の本体(言語・概念を本体視したもの)と想定し、それらから我々の意識体験が作られているとする場合、それが遍計所執です。
・主観と客観は固有の本体として存在せず、あくまで阿頼耶識(識)から生起したものであり、阿頼耶識縁起から我々の意識体験が作られているとする場合、それが依他起です。
・煩悩(潜在煩悩)に覆われているが、その本性は無垢・清浄である真如というのは「如来蔵」「法身」「光り輝く心」とも言われます。阿頼耶識の中心に相当します。それが円成実です。

弥勒(マイトレーヤ)は、阿頼耶識から生起した主観と客観を「二」や「二の迷乱」と表現しています。即ち、依他起における迷乱としての主観と客観を「二」とします。故に、遍計所執における実在としてある主観と客観は「常に二を離れたもの」となります。

識の「四分説」に基づいて、弥勒の三性説を見てみると、次のようになります。

阿頼耶識の種子(非寂静)と光り輝く心(寂静)を合わせて、広義の阿頼耶識とします。狭義には相分と見分に変化する種子(非寂静)に相当する部分のみを阿頼耶識としますが。

次回の記事では、弥勒の著書である『中辺分別論』において、三性説を見ていきます。その経典には、(弥勒の)三性説が詳しく説かれています。