見出し画像

【大乗仏教】ラトナーカラシャーンティ

ラトナーカラシャーンティ(ラトナーカラ)は10世紀後半から11世紀初頭にかけて活躍した仏教学者であり、この時代の「無形象唯識派」を代表すると同時に、中観派と唯識派とが二つの異なった伝統ではなく一つのものであることを強調し、両学派の理論を一致させることに努めたとされます。

ラトナーカラが主に議論対決したのは、有形象唯識派と究極的には認識も外界の対象と同じように実在でないとする説(中観派)です。

有形象唯識派に対して、ラトナーカラは次のように主張します。

「世界のあらゆる現象は我々の認識に過ぎないが、この認識は青や赤という形象とそれを現象させる照明との二つからなっている。そのうち形象は無始以来の誤った印象から生じたもので非実在である。その形象は認識の本質である照明作用に依らずに、ひとりでに現れるわけではなく、また、例えば青の形象は誤りとして赤の形象によって訂正されることがある(それを一瞬青色かと思ったが、よく見たら赤色だったという経験)。このように、形象一般は他の形象によって否定され、またそれ自身独立に顕現するのではないから、虚偽のものであることが分かる。けれども、認識の照明作用そのものは常に変わらず、常に自覚される。だから、形象は存在しないが、照明の実在性を疑うことはできない。」

ここで、形象とは唯識説における主観と客観(七識)、照明とは主観と客観を認識する阿頼耶識と考えると分かりやすいと思います。

有形象唯識派は次のように反論します。

「青なら青という形象が照明されて顕現するならば、それは形象が照明と同一であり、同じように実在するということである。そうでなければ、青が照明されるということ自体が成り立たない。」

と。有形象唯識派は形象と思惟・感情とを区別します。思惟・感情は虚構であるものの、それを離れた形象そのものは認識の本質として実在するとします(形象=照明)。ラトナーカラは形象と思惟・感情とを同一視して共に虚構であるとし、それを離れた照明そのものを認識の本質と考えています。この二つの立場の対立についても、結局インド仏教の最後まで解決されなかったのです。

一方、この時代の中観派は唯識派に対する態度によって二派に分かれています。清弁(バヴィヤ)の跡を継ぐ中観派の系統は、一般的理解の立場では外界の対象と、内界としての心(形象と照明)との両者を共に存在すると認め、最高の真実としては両者とも存在しない主張します。

シャーンタラクシタなどの中観派は、一般的理解の立場では外界の存在を否定して心(形象と照明)のみの存在を肯定しますが、最高の真実としてはその心(形象と照明)の実在性さえも否定します。

前述のように、シャーンタラクシタのこのような主張に対してラトナーカラは、例え認識の形象は虚偽であるとしても、照明そのもの、つまり本質的な知としての最高の真実を存在しないと考えるべきではないと反論しています。シャーンタラクシタの説く無顕現(空)は照明そのものを越えると言われていますが、それは照明そのものを対象とすることを越え、それと一体となることであるとラトナーカラは説きます。

ラトナーカラは、「照明自体の他に、それより高い立場が空である」というわけではないと言うのです。照明そのものと一体となった立場が唯識の真理としての実在であり、中観の真理としての空性の知であるというのであるということです。

シャーンタラクシタは最高の真実を、心の形象や照明を越えた絶対的な空として表現しましたが、他方のラトナーカラは最高の真実を「光り輝く心」=照明と表現しました。最高の真実に対する消極的な表現(シャーンタラクシタ)と積極的な表現(ラトナーカラ)との二つについても、インド仏教の最後に至るまで対立的に残在しました。