阪神大震災にふたをして27年
自分自身の阪神大震災についてまとめたことや聞かれなければあえて話すことはありませんでしたが、なぜかその理由が分かりました
自分の体験は他のもっと大変だった人の体験に比べてたいしたことがないって自分で決めていたのでした
私のhave toでした
こうでなきゃならい、人と比べてどうか、頑張らなきゃ、などなど自分を1ミリでも制限する感覚全てをhave toとすると
その一つが私の体験に蓋をしていたのでした
人と比べて自分の体験はそれほどでもないからあえて書くほどでも人に伝えるほどでもない
ふと自分の体験を心の中から引き出すように書き、書き終わってしばらしくて漸くそれが分かりました
誰にとってもそれぞれの体験は唯一無二で貴重
それを改めて受容することができた記念に記します
※have toについては下記の記事を参照ください
※揺れの描写があります
震度7の体験
27年前に宝塚で阪神大震災にあいました
当時私は中学生でした
その時の記憶は何よりも鮮明に映像と音とで残っています
私はインフルエンザにかかっていて、当日もまだ学校に行くのは無理だねとなり、寝入った瞬間に地震は起こりました
揺れが始まった瞬間、一瞬にしてシェイクされるような感覚になり、寝ていたのですが、どこにも捕まらなければゴロゴロと右に左に大きく転がってしまう感じでした
ガシャガシャとシャッターが閉まる音が何十倍にもなったような感じだったことを記憶しています
とりあえず逃げる
外は真っ暗でしたがそのままいったん外へ出ていきました
近所の人たちも毛布をかぶったまま外へ避難していました
避難とは言っても今のようにしっかり避難場所が指定されていたかもわからず、どうしていいか分からないからとりあえず外に出ているといったような感じ
家の中
やがて明るくなって家の中にもどると家の中は天地がさかさまになったのか、どっちが天で地なのかよく分からない状態でした
物が散乱していない場所はない
当時のブラウン管の重いテレビもテレビ台から飛び落ちているし
ピアノも壁によりかかるように前に移動してきていました
配置の向きにもよりましたが、あらゆる戸棚と食器棚のドアは開き物は飛び出している
多分文字通り飛んで出ていったんだと思います
私たちが住んでいたマンションは最終的には半壊と査定されたのですが、その時点では何も分かりませんでした
とりあえず隣のマンションがたおれてくるかもしれないから逃げようとなりました(そのマンションは形はあったものの全壊とされ取り壊されました)
当日の夜
近くの公民館に逃げ込み一夜を明かしました
マンションの近所の方たちが一緒でした
もちろん雑魚寝
次の日にはおにぎりとボールに入れられたお菓子が小さな子供達には配られていたのを覚えています
移動の日々
ずっと公民館にいるわけにもいかず、そのあたりの経緯の記憶はあいまいですが、神戸の垂水区にいるおばあちゃんの家に行こうということになりました
神戸でももちろん被害の様子は場所によって大きく異なっていて、垂水の方は大丈夫だったのだと思います
そしておばあちゃんの家に行く前に確か知り合いの牧師さんの家にも数日泊まらせてもらった記憶があります
すごく印象的だったのが、強めの余震があったんですよね、でも牧師さんはびくともせず、落ち着きましょうの一言
そして牧師さん宅で数日お世話になった後おばあちゃんの家に向かうことになりました
これまたどこをどう通っていったのかは、覚えてないのですが、いつも使う阪急電鉄と神戸高速鉄道は使えません
確か兵庫県内で山越えしたような記憶があります
よく昔みた赤とベージュ色の電車に乗っていった気がします(国鉄色というのですね)
今地図で確認してみると多分福知山線を使って大回りして加古川に出たのかもしれません
親戚のおじさんが迎えに来てくれ健康ランド的なところに向かいました
その時点で10日間お風呂に入っていなかったんですよね
宝塚は幸い初日に電気は復旧したと思います
ただガスと水の復旧がないままでした
神戸のおばあちゃんの家でももちろんガスは来ておらず、でも幸いなことに電気と水があったのでなんとかしのげていました
そこで1-2か月は過ごさせもらったんだと思います
宝塚の我が家が半壊ながらもすぐに崩れ落ちることはないと確認できて帰りました
学校は?
学校はどうなっていたか
山の手にあった学校の校舎はありがたいことに無事でした
電車の高架が倒壊したこともあり、学校はその年度は確か授業はあまりされなかったような気がします(3月くらいに短時間授業が始まったか)
私も阪急電車で通っていたので、もちろん行けません
授業がはじまった当初は確か阪急、阪神、JRや時によってはバスを乗り継いで通っていた記憶があります
一枚の定期を持っていたら、何をどう乗り継いでも目的地に行けて不思議な感じがしていました
神戸の街
ある時どういうタイミングだったかは覚えていませんが、三宮に出ました
忘れられない光景の一つがビルとビルがお互いを支えあうように倒れていた光景でした
お互いがお互いを支えているからかろうじて崩壊を免れている
恐ろしくもありましたが、どこか不思議な光景でした
食事をしにとりあえず中華街の南京町に向かいました
いつも通りとはいかなくともある意味変わらず力強く店の前で肉まんやラーメンが売られていました
本当に中華街の人々がたくましいと感じた瞬間でした
神戸市庁舎にも行った記憶があります
当時はまだまだリアルな掲示板の時代
壁のボード一面に人を探すメモが貼ってあったと思います
その隣の市庁舎のビルはどこかの階が完全につぶれてなくなっていました
まるで映画のワンシーン
その後の私の心
宝塚の我が家の周辺も倒壊した家がそのままの状態でした
ある時小さい子をおんぶしたおばあちゃんが、ぺしゃんこになった家の前で
「あそこのおばあちゃんみたいに死んだらつまらんから、生きていこうな」
と小さな子に話しかけていました
毎回そこをとおるたびにそこに住んでいたおばあちゃんは亡くなったんだと思い返しました
多分いつか人は本当に死ぬのだということを自らに刻み付けていたのかもしれません
思春期の真っ只中だった私はその後しばらくして「生きるって何だろう」、「死ぬってなんだろう」の問いに迷宮入りしました
私の中の心の状態はどうだったのか
悲しみや恐ろしさ以前にショック状態が長く続いていた気がします
多分そのまま受けとめられないのでフィルターをかけて状況を見ていたのか、本能的にその状況に入り切れず一歩下がってみていたのか
ただシャッターをガラガラと閉める音がその後ずっと怖かったこと
どうしても亡くなった方たちがどう亡くなってしまったのかと何度も想像してしまったこと
もしかすると自分たちのマンションがつぶれた可能性もあったんじゃないかと怖くて寝れない日もあったこと
同じ学校の先輩生徒さんの親後さんが亡くなり
その生徒さんの言葉があまりにも心を打つものであったこと
こんな趣旨でした
「ゆずり葉は新しい葉ができると入れ代わって古い葉が落ちるのだそうです。私のお母さんはこうして私に生命を託していったんだと思います。」
私の中で様々な感情が起こっていました
多分処理しきれていなかったと思います
当時学校で友人関係でうまくいっていなかった私は、学校の授業がなくなることにどこか安堵を覚えていました
それでも
数か月たって漸く学校でみんなと再会できたときが本当にうれしかったです
それまでの悩みがどれほど小さいものだったか、お互いにみんなそれどころじゃない
ただ再会できたことに喜びました
そこで何か決断がなされたのか、その年以降数年間にわたる学校生活を清々しいほどにいつも全力で過ごしていました
神戸のその後
大学生になり上京してからもたびたび神戸には足を運びました
ふと行きたくなる街
そして、どこか行くたびに復興がなされていることを確認していました
むしろ確認しに行っていたのかもしれません
震災前の神戸は記憶の中だけですが、本当に美しかったと思います
そして震災後も同じように、さらに深みをまして美しくなっていると感じます
幸いにして近しい家族がなくなった等の経験はしなかったものの
この体験は長い間にわたり度々一人で反芻はするけれども、整理することもなく、外に出すこともないものでした
意味付けすらしていなかったのかもしれません
良いも悪いもジャッジや判断をしない
今も強く何か意味付けをしようとしているわけではないんだと感じます
ただこの体験通して間違いなく重要なことは学び何がありがたく、大切で、また何が怖いものなのか、少しずつ分かっていったのかもしれません
震災後の人々の力強い営みにより神戸の街は復興していったことが私の中に深く刻まれているのかもしれません
この体験をそのまま私の中で調理することもなく、その時の当時のままの状態で箱の中に保存しておこう
そんな感覚になっています
ここまで書いて読み返し、あまりにも当時の自分が書いているようなトーンであり、学生が書いたような文章であることに驚かずにはいられません
この体験を当時の私が書いた当時のままの状態で箱にしまいたいと思います
なのであえてこのままで・・・
2022年1月18日
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