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伊東静雄詩集『わがひとに与ふる哀歌』に詠われた愛の讃歌と青春の蹉跌

詩人伊東静雄随想㈠

〈伊東静雄〉という詩人をご存じだろうか。
 昭和10年10月に出した処女詩集『わがひとに与ふる哀歌』が日本近代詩の父と言われた萩原朔太郎から「日本にまだ一人、詩人が残っていた」「真に〈心の歌〉を持っているところの、真の本質的な抒情詩人」と激賞されて当時の日本文芸界に衝撃を与え、第二回文芸汎論賞が授与されて日本浪漫派の代表的な詩人として世に出た人である。
 伊東は、明治39年に長崎県諫早市に生まれ、大村中学校、佐賀高等学校、京都帝国大学文学部を卒業して、昭和4年から大阪にあった当時の住吉中学校に国語教師として勤めたが、昭和24年に肺結核を発病し、昭和28年3月に46歳で逝去した。
 三島由紀夫は、伊東の全集の推薦の辞で「伊東静雄氏は私のもっとも敬愛する詩人であり、客観的に見ても、一流中の一流だと思う」と述べている。また、大江健三郎は伊東の詩である『鶯』(※巻末に詩を掲載)を題材に『火をめぐらす鳥』を執筆し、その小説の中で「僕がもっとも大切に思う詩」と書き記している。

 この詩集『わがひとに与ふる哀歌』は詩人自ら構成した27篇の詩で編まれており、全篇に譬喩とクセニエ(風刺)がちりばめられ、アイロニー(逆説、反語法)で孤高な浪漫的心情を硬質な言葉で表現したその魅惑的な詩には、傷つき屈折せざるをえない青春の誇りと苦痛とがみごとに表現されている。今なお私たちを魅了してやまないこの詩集には、〈わがひとへの愛〉と〈失われた故郷〉という二つの主題が織り込まれていると言われており、この二つの主題は、この詩集の冒頭に掲げられた詩『晴れた日に』を読めば相互に密接に関連していることがうかがえる。

 『晴れた日に』 

 とき偶に晴れ渡つた日に
老いた私の母が
強ひられて故郷に帰つて行つたと
私の放浪する半身 愛される人
私はお前に告げやらねばならぬ
誰もがその願ふところに
住むことが許されるのでない
遠いお前の書簡は
しばらくお前は千曲川の上流に
行きついて
四月の終るとき
取り巻いた山々やその村里の道にさヘ
一米メートルの雪が
なほ日光の中に残り
五月を待つて
桜は咲き 裏には正しい林檎畑を見た!
と言つて寄越した
愛されるためには
お前はしかし命ぜられてある
われわれは共に幼くて居た故郷で
四月にははや縁つば広の帽を被つた
又キラキラとする太陽と
跣足では歩きにくい土で
到底まつ青な果実しかのぞまれぬ
変種の林檎樹を植ゑたこと!
私は言ひあてることが出来る
命ぜられてある人 私の放浪する半身
いつたい其処で
お前の懸命に信じまいとしてゐることの
何であるかを
              伊東静雄詩集「わがひとに与ふる哀歌」より

  この巻頭詩の『晴れた日に』において、「私の放浪する半身 愛される人 私はお前に告げてやらねばならぬ 誰もがその願うところに 住むことが許されるものではない……」とし、「愛されるためには お前はしかし命ぜられてある われわれは共に幼くて居た故郷……」と故郷・諫早での生活を描写し、この二つの主題が別々のものではなく、不可分に関連していることが暗示されている。
 この詩集において〈わがひとへの愛〉をよく表現したものとしては、詩集のタイトルとなった『わがひとに与ふる哀歌』や『冷たい場所で』などであり、一方で〈失われた故郷〉としては、『帰郷者』や『有明海の思い出』(※巻末に詩を掲載)や『河辺の歌』などであろう。
 ここでは、〈わがひとへの愛〉を詠った詩『わがひとに与ふる哀歌』は、いったい誰に捧げられたものなのか。また、その恋はいかなるものであったのかを、私なりに紐解いてみたいと思う。
 ではまず、この詩をじっくりと読んでもらいたい。

 『わがひとに与ふる哀歌』

太陽は美しく輝き
或は 太陽の美しく輝くことを希ひ
手をかたくくみあはせ
しづかに私たちは歩いて行つた
かく誘ふものの何であらうとも
私たちの内の
誘はるる清らかさを私は信ずる
無縁のひとはたとへ
鳥々は恒に変らず鳴き
草木の囁きは時をわかたずとするとも
いま私たちは聴く
私たちの意志の姿勢で
それらの無辺な広大の讚歌を
あゝ わがひと
輝くこの日光の中に忍びこんでゐる
音なき空虚を
歴然と見わくる目の発明の
何にならう
如かない 人気ない山に上り
切に希はれた太陽をして
殆ど死した湖の一面に遍照さするのに 

 では、この詩の中で伊東が〈わがひと〉と呼びかけたのはいったい誰なのか。その答えは、この詩集を刊行した昭和10年11月の伊東の書簡の中に記されている。
 その書簡には「……あなたこそ 私が第一番に送らねばならぬ人です。私の詩はいろんな事実をかくして書いてをりますので、他人はよみにくいと存じますが、百合子さんはよみにくくない筈です。あなたにもわからなかったら もう私の詩もおしまひです 家島(※姫路の沖に浮かぶ島)のことや姫路のことや本明川(※諫早市街地を流れる川)のことがどっさり歌ってある筈です」と記されている。詩集を贈呈してこの手紙を出した〈百合子さん〉とは、同じ諫早出身で伊東が佐賀高時代(現佐賀大学)から私淑していた英語教授の酒井小太郎の次女・酒井百合子のことである。
 小太郎はのちに姫路高等学校(現神戸大学)の教授に転じ、伊東は後を追うように京都帝国大学文学部に入学して姫路の自宅を訪れるようになり、百合子が同志社女子専門学校英文科に入学して酒井家が京都市今熊野に家を構えてからは、なお一層足繁く通っており、この頃から4歳年下の百合子に思いを寄せるようになったものと思われる。

 二人の関係は、初めの内はお互いに悪口などをずけずけ言い合う調子で、百合子は蛮カラで汚い風体で自分の欠点などを揶揄する伊東によい印象を持っておらず、書生程度にしか見ていなかったようである。百合子に対する愛情の裏返しとも言える伊東のこの奇妙な態度は、彼一流のアイロニー(皮肉)的資質の現れだったものと思われるが、二人は次第に文学や音楽の話をする親しい関係になっていったようである。
 しかし、百合子には常に生まれ育ちの違いや諫早での古い階級意識が潜在していたものと思われ、それを伊東も感じ取っていたのではないかと思われる。

 百合子が幼少の頃より住んだ諫早の酒井家は士族で、江戸時代から続く医者の家柄であり、当時は本明輪内名(現天満町)の北諫早役場(当時)のそばの白壁塀を巡らした、それは豪華な屋敷だったそうである。
 建設当時、土建業だった宮崎康平氏(「まぼろしの邪馬台国」著者)の父の家と酒井家とを、大工たちがその豪華さを競って建てたと言われるほど裕福で良家のお嬢様として育った百合子。これに対して伊東は、父が養豚やその仲買業で一代で身を起こし木綿問屋に転じた商家で、諫早では普通の平民的家庭で育った。
 百合子は、伊東の家は「酒井家とは全然問題にならないことは、家中で知っていましたから、彼は気軽に安心して出入りしていたのです」とのちに語っており、明瞭に故郷・諫早での家格や身分の違いを意識していたことは事実だったと思われる。一般的に『哀歌』は、伊東がそんな百合子に一方的に想いを募らせ、封建的な格式や身分などが残る諫早の遺制が若者を苦しめ、血を吐くような稀有な抒情詩を生んだのだと言われることが多いが、しかし、果してそうだろうかと私は疑問に思っている。

 『哀歌』の冒頭句を見て欲しい。
 〈太陽は美しく輝き 或は 太陽の美しく輝くことを希ひ 手をかたくくみあはせ しづかに私たちは歩いて行つた かく誘ふものの何であらうとも 私たちの内の誘はるる清らかさを私は信ずる……〉と詠う箇所は哀歌でもあるが、〈私たちの内の誘はるる清らかさを私は信ずる〉と複数形で表現されているところなど、素直に読めばこれは二人の愛の《讃歌》でもある。
 加えて言えば、先に挙げた百合子への手紙で伊東は〈私の詩はいろんな事実をかくして書いてをりますので、他人はよみにくいと存じますが、百合子さんはよみにくくない筈です。あなたにもわからなかったら もう私の詩もおしまひです〉と書き送っている。そのように手紙で書き送るからには、この詩を読めば、百合子も直ぐ気づくであろう何らかの二人の間で共有した意識や体験又は事柄があったのではないか。少なくとも、お互いの好意を感じ合う瞬間が二人の間にあったのではないか、そう思えてならないのである。

 実はその謎を解く鍵の一つは、ジョン・ヘンリー・マッケイの詩にリヒャルト・シュトラウスが曲を付けた『モルゲン』という歌曲にあるのではないかと思われる。訳題は『明日』とか『明日の朝』などと訳されることが多く、ドイツ語でモルゲンは朝の意味である。
 この曲は、シュトラウスが新婚の妻のために作ったと伝えられる『4つの歌曲』作品27の締めくくりに位置するもので、その歌詞と『哀歌』を比べてみれば、自ずと謎を解いてくれているように思える。
 下記は『モルゲン』の簡単な日本語訳であり、『哀歌』の歌と比較して見て欲しい。特に『哀歌』の前半部の〈手をかたく組み合わせ〉て二人が歩いて行く場面と、最後の〈人気ない山に上り 切に希はれた太陽をして 殆ど死した湖の一面に遍照さするのに〉という箇所に照応する部分に注意をして欲しい。 

『モルゲン(明日の朝)』 ジョン・ヘンリー・マッケイ作

 明日の朝 太陽はまた輝くだろう
ぼくが行くこの道の半ばで
幸せなぼくら二人を ひとつにするだろう
太陽が息づく この地のただなかで
広やかで青い波が 打ち寄せる浜に
二人静かに ゆっくりと降りよう
ぼくらは言葉なく 互いの瞳を見詰め合うだろう
そして幸せの沈黙が 二人へと降りてくる

  この『モルゲン』という詩では、明日の朝、輝く太陽のもとで、愛し合う二人が再び一つになって湖に降りて行こう、というきわめて希望に満ちた愛の詩である。しかもこの歌曲は、シュトラウスが新妻のために作ったと伝えられるものであることに注意を要する。二つを比較してどうだろうか。
 『哀歌』の中に、この詩に共鳴するようなイメージが感じられないだろうか。特に前半部の燦燦と降り注ぐ太陽の光の中を二人が一つになって歩いて行く様は、『哀歌』の冒頭句の〈手をかたく組み合わせ〉て二人が歩いて行く様を想起させる。また、哀歌の最終句の〈殆ど死した湖の一面〉とは、『モルゲン』の〈広やかで青い波が 打ち寄せる浜に 二人静かに ゆっくりと降りよう〉という箇所を踏まえた哀切な詩的表現であるように思われる。『モルゲン』が幸福な二人が湖に降りていく情景を詠うのに対し、『哀歌』では、〈人気ない山に上り 切に希はれた太陽をして 殆ど死した湖の一面に遍照さするのに〉と、『モルゲン』とは逆に山に登り、その山から〈殆ど死した湖の一面〉が遍照するのを見るのである。詩題となった〈哀歌〉とは、まさにこの部分を指している。
 『哀歌』は『モルゲン』と出だしは同じような愛の讃歌だが、最後の結末は真逆の〈哀歌〉となっているのである。 

 実は伊東から百合子に宛てた書簡の中に、『モルゲン』に触れたものが二通含まれている。
 一つは百合子が同志社女子専門学校を卒業した直後の昭和6年5月の手紙で「先日はお世話になりました。ゆり子さんが、私の夢見ていたとほりに、どんどん美しく大きくなられるのが、大へん愉快だと思って帰りました。あのモルゲンのうた すっかり暗記して でたらめの節で歌ってをります」と書き送っている。
 〈あのモーゲンのうた〉と書いていることから、先に酒井家を訪問した時、二人で『モルゲン』を聴いたことが推測され、しかもその書きぶりから、そのレコードを伊東に聴かせたのは、たぶん百合子の自発的な行為であったであろうと思われる。
 当時聴いたと思われるレコードには、竹下夢二の挿絵と日本語訳がついていたようだから、百合子はその歌曲が意味することを理解した上で、その歌曲を伊東に聴かせ、レコードの解説なども当然に見せた筈である。注目するのはその時期が、百合子が同志社女専を卒業した直後ということである。二人姉妹の姉はすでに他家に嫁ぎ、22歳となった百合子には当然に酒井家を継ぐことが宿命づけられており、具体的に婿養子の縁談話が出ていてもおかしくない時期だった。そんな微妙な雰囲気の中で、百合子は自ら選んでシュトラウスが新妻に捧げた愛の歌曲のレコードを、教師として働きはじめていた26歳の伊東に聴かせているのである。

  もう一つ、その直前に二人の関係を左右する伏線となったと思われる出来事が百合子あて書簡に記されている。
 この年の正月に諫早に帰省した伊東は、その後の詩作に大きな影響を受ける『セガンティーニ画集』と出合い、それを大阪に持ち帰って百合子に見せている。昭和6年1月7日の百合子あて手紙に「……こんどの帰郷は非常に私の思想を変えました。……私は諫早で、ラプラードとセガンチニーの二人を知って帰って来ました。世紀末の画家です。特に私の持っているセガンチニーの画集を、女であるゆり子さんにみせたくあります……」と書き送っている。このドイツで出版された画集には代表的な絵画とともに伝記が付いていたようであり、ドイツ語が堪能な伊東は強烈な啓示を受けたことが推察され、特に〈女であるゆり子さんにみせたくあります〉と強調したところに伊東の心情が溢れているように思える。

 アルプスを描いた画家として知られたるセガンティーニは、北イタリアに生まれ幼くして孤児となり、少年時代には流浪の生活を送ったり、浮浪児として感化院の僧院に入れられたりもしたが、22歳のとき友人の妹である 17歳のルイージャ・ピエリーナ・ブガッティ(愛称はビーチェ)と出会い、終生お互いにその愛を貫いた。ビーチェとの結婚生活は終生経済的な問題に悩まされたが、4人の子どもに恵まれ、妻の支えによってその画才を開花させた人物である。アルプスの山々に降りそそぐ光を希求したセガンティーニの絵画が伊東の『曠野の歌』(※巻末に詩を掲載)をはじめ多くの詩に影響を与えていることはつとに指摘されているが、裕福な家庭に育ったビーチェが孤児上がりの貧しいセガンティーニと結婚(セガンティーニが無国籍であったため、当初は正式の結婚手続きは出来なかった)して支え続けたことはこれまで話題になったことはなかったように思う。

 小高根次郎氏は自著で、伊東が〈女であるゆり子さんに見せたくあります〉と書いたのは、若くして夫を失った母の姿を描いた〈父は死せり〉や両掌で髪を掴んで慟哭している母を描いた〈空しき揺籃〉など女人に待ち設けられた悲しい運命の絵を見せたかったのだろうと推測しているが、果たしてそれだけだろうか。絵を見せたのはもちろんだが、伊東が特に〈女であるゆり子さんにみせたくあります〉と書いた本意は、孤児上がりで貧しい一介の画家と17歳のビーチェが迷うことなく結婚し、終生変わらぬ愛を貫きゼガンティーニが画家として大成して行くのを支えたエピソードを語りたかったのではないかと思える。結婚当時、読み書きも出来きなかったセガンティーニのために、ビーチェが様々な本を読み聞かせて学問習得を助けたエピソードは有名であり、そのことが絵の中に象徴として込められた彼の深遠な思索を助長したことは間違いない。

 実はこの年の四月、伊東は大学時代の親友の宮本新治氏に借金の件で礼状を出している。これは4月から弟の寿恵男が京都帝大に入学したことに伴う出費であろうと思われるが、このことは諫早の伊東の実家が寿恵男の進学費用を工面できなくなったことを意味している。
 伊東はこの2年前の昭和4年10月から諫早から妹を呼んで新しく一軒家を借りて暮らし始めているが、当時の百合子あて書簡に「…私にも、妹にも、きっとそんなに愉快なものではないだろうと。私もこれからぼつぼつ人生苦を沁みじみと味はされるのでありませう。家賃は拾八円五十銭、敷金は四拾円。私はこの始まろうとする私の典型的小市民生活を、独りで苦笑してゐます」と経済的な困難を匂わせる悲観的な将来を予測するようなことを書いている。
 その懸念は、昭和7年2月に父の惣吉が急死して現実のものとなる。父の死後残された借財1万円が跡取りである伊東の両肩に重く圧し掛かってくるのである。因みに手紙に書かれている一軒家の月家賃18.5円を基に試算してみると、当時の1万円は現在の三千万円を超えるほどの額であり、新任教師の伊東にとっては容易に返済できる金額でないことはもちろん、残された母や妹、大学生の弟の生活の面倒まで見なければならなくなったのである。

 伊東は実家の凋落を知っていたものと思われ、厳しい生活を余儀なくされるであろう将来の自分にセガンティーニの姿を重ね合わせ、正月に持ち帰ったセガンティーニ画集を見せながら、百合子にビーチェの生き方を熱心に語って聞かせたのではないだろうか。そして、その伊東の問い掛けに対する百合子の返事とも言うべき行為が、シュトラウスの歌曲だったのではないか。書簡に「あのモルゲンのうた すっかり暗記して でたらめの節で歌ってをります」との嬉しそうな書きぶりが、そのことを物語っているようにもとれる。
 つまり、二人で『モルゲン』の歌曲を聴いたとき、二人の間に相互の好意を確かめ合った瞬間があったのではないかと思われてならないのである。

  しかし、二人の間で相互の好意を感じ合ったその同じ日に、伊東が百合子との結婚を諦めざるを得ない何らかの出来事が起こったのではないかとも推測するである。
 先の手紙の中で伊東は〈私の夢見ていたとほりに、どんどん美しく大きくなられる〉とあからさまに百合子を大げさに褒め讃えている。伊東はアイロニー的資質の持ち主だから、百合子に対してこんな他人事のような美辞麗句の言葉が呈したことは、それまでなかったように思われる。それはあたかも、あからさまに百合子を褒めることによって逆に、自分が百合子に対してもう以前のような特別な感情を持っていないことを表明しているかのように、私には感じられる。非常に不可解であり、それまでの態度とは余りに大きな変身である。

 事実この手紙を出した時期を境に、伊東は短歌会で知り合っていた山本花子との結婚を自ら積極的に押し進めていき、翌年春には結婚してしまう。花子は、伊東の負っている借財のことも、養うべき家族のことも承知の上で、最終的に結婚を承諾した。花子は大阪の元薬種商家の娘で、当時としては女子教育の最高学府ともいうべき奈良高等師範学校を卒業した才媛で、結婚後も堺市立高等女学校に奉職を続けて、セガンティーニにおけるビーチェと同じように伊東の孤高の詩業を陰から支え続けた。何とも皮肉な結末ではある。

 以上のように、伊東が先に酒井家を訪問したとき、二人の間に『モルゲン』を聴いて心を通わせただけではなく、逆に伊東に百合子への思慕を断念させるような何かが起こったのではないか、そう推測するのもあながち間違いではないように思える。
 それが『哀歌』の最後のフレーズの〈殆ど死した湖〉という哀切な表現に凝縮されているのだと思われる。

 『モルゲン』に関するもう一つの手紙は、哀歌出版後の昭和10年12月だが、この手紙で伊東は「……この前お逢ひしたとき、私の哀歌はモルゲンに似ている。又拒絶といふ題は独逸のリード(※Lied、歌謡)に似ていると言われましたが、あれは私の詩の今迄の批評の中で一番正しいものです、身近な人はやはり正しいと感心し、満足しました……」と百合子に書き送っている。やはり『哀歌』と『モルゲン』は底通し、百合子だけには『哀歌』に秘められた伊東の切ない心情がよく理解できたのだ。

 若し、通説のとおり『哀歌』が伊東の百合子に対する一方的な片恋によって書かれたものとするならば、その片思いの年下の相手に対して自分の恋愛感情を露骨に表現した抒情詩を贈呈し、詩創作の元となった種明かしまでするだろうか。しかも百合子に対し〈私の哀歌はモルゲンに似ていると言われましたが、あれは私の詩の今迄の批評の中で一番正しいものです、身近な人はやはり正しいと感心し、満足しました〉と書き送っている。やはり、二人の間に『哀歌』で詠われた情景を納得する心の通じ合いがあったとしか思われない。伊東と百合子の間には、この後も終生を通じた心の通った交流が続くのである。
 では、伊東が百合子との結婚を断念したと思われる出来事とは何だったのか、それについては次回にじっくりと考察してみたいと思っている。

  酒井百合子は、激動の戦中、戦後を生き抜き、晩年は千葉県の九十九里浜に小さな家を建てて移り住み、終生独身を通して91歳で天寿を全うした。百合子が終生独身だったということに、伊東静雄との関係を勘ぐりたくなるが、それは余りにも短絡的な見方であるとも思う。

 百合子の墓碑は、父・酒井小太郎と母・フミとともに諫早市泉町の高台にある酒井家墓所の一画にある。そこからは緩やかな裾野を有明海に延ばす雲仙の雄大な景観が遠望され、かつては伊東が『有明海の思い出』で詠った干潟がどこまでもつづく諫早湾の情景が遠く広がっていた。酒井家の墓所がある位置がちょうど、伊東の墓碑がある立石町の高台の廣福寺境内と本明川を挟んで遠く相対するように立っており、そのことも何となく心に沁みる。(つづく)

※「有明海の思い出」など伊東静雄の詩をモチーフにした長崎物語集③
 『有明海の思い出』(小説)も是非ご一読ください。

【参考文献】
〇伊東静雄研究会 上村紀元編「伊東静雄 酒井家への書簡」
〇小高根二郎著「詩人、その生涯と運命-書簡と作品から見た伊東静雄」
〇中路正恒氏ブログ「ある日の伊東静雄」
〇伊東静雄ホームページitosizuo.sakura.ne.jp/isahaya.html


『曠野の歌』
 伊東静雄詩集「わがひとに与ふる哀歌」より

わが死せむ美しき日のために
連嶺の夢想よ!汝が白雪を
消さずあれ
息ぐるしい稀薄のこれの曠野に
ひと知れぬ泉をすぎ
非時の木の実熟るる
隠れたる場所を過ぎ
われの播種く花のしるし
近づく日わが屍骸を曳かむ馬を
この道標はいざなひ還さむ
あゝかくてわが永久の帰郷を
高貴なる汝が白き光見送り
木の実照り 泉はわらひ……
わが痛き夢よこの時ぞ遂に
休らはむもの!

 ※三島由紀夫が「新潮」から愛誦詩を一つ挙げて欲しいと依頼されて
 選んだ詩

『燕』 伊東静雄詩集「夏花」より 

 門の外の ひかりまぶしき 高きところに 在りて 一羽
燕ぞ鳴く
単調にして するどく 翳なく
あゝ いまこの国に 到り着きし 最初の燕ぞ 鳴く
汝 遠くモルッカの ニュウギニヤの なほ遥かなる
彼方の空より 来りしもの
翼さだまらず 小足ふるひ
汝がしき鳴くを 仰ぎきけば
あはれ あはれ いく夜凌げる 夜の闇と
羽うちたたきし 繁き海波を 物語らず
わが門の ひかりまぶしき 高きところに 在りて
そはただ 単調に するどく 翳りなく
あゝ いまこの国に 到り着きし 最初の燕ぞ 鳴く


  ※大江健三郎の小説「火をめぐらす鳥」は、伊東の詩『鶯』の解釈をめぐ
 り物語が展開する。

『鶯 (一老人の詩)』 伊東静雄詩集「わがひとに与ふる哀歌」より

 (私の魂)といふことは言えない
その證拠を私は君に語らう
――幼かつた遠い昔 私の友が
或る深い山の縁に住んでゐた
私は稀にその家を訪うた
すると 彼は山懐に向つて
奇妙に鋭い口笛を吹き鳴らし
きつと一羽の鶯を誘つた
そして忘れ難いその美しい鳴く声で
私をもてなすのが常であつた
然し まもなく彼は医学校に入るために
市に行き
山の家は見捨てられた
それからずつと――半世紀もの後に
私共は半白の人になつて
今は町医者の彼の診療所で
再会した
私はなほも覚えてゐた
あの鶯のことを彼に問うた
彼は微笑しながら
特別にはそれを思い出せないと答へた
それは多分
遠く消え去つた彼の幼時が
もつと多くの七面鳥や 蛇や 雀や
地虫や いろんな種類の家畜や
数へ切れない植物・気候のなかに
過ぎたからであつた
そしてあの鶯もまた
他のすべてと同じ程度に
多分 彼の日日であつたのだろう
しかも(私の魂)は記憶する
そして私さへ信じない一篇の詩が
私の唇にのぼつて来る
私はそれを君の老年のために
書きとめた  

『有明海の思い出』 伊東静雄詩集「わがひとに与ふる哀歌」より

 馬車は遠く光のなかを駆け去り
私はひとり岸辺に残る
既に海波は天の彼方に
最後の一滴までたぎり墜ち了り
沈黙な合唱をかしこにしてゐる
月光の窓の恋人
叢にゐる犬 谷々に鳴る小川……の歌は
無限な泥海の輝き返るなかを
縫ひながら
私の岸に辿りつくよすがはない
それらの気配にならぬ歌の
うち顫ひちらちらとする
緑の島のあたりに
遥かにわたしは目を放つ
夢みつつ誘はれつつ
如何にしばしば少年等は
各自の小さい滑板にのり
彼の島を目指して滑り行つただらう
あゝ わが祖父の物語!
泥海ふかく溺れた児らは
透明に 透明に
無数なしやつぱに化身をしたと

註 有明海沿の少年らは、小さい板にのり、八月の限りない干潟を蹴つて
  遠く滑る。しやつぱは、泥海の底に孔をうがち棲む透明な一種の蝦。


伊東静雄
諫早公園にある詩碑と、毎年3月最終日曜日に開催される伊東静雄を偲ぶ『菜の花忌』の風景

諫早市厚生町の伊東静雄の生家跡地(教法寺東側)


取り壊し前の伊東静雄の生家
諫早市立石町の廣福寺墓地にある伊東静雄と妻・花子の墓碑(左側)
諫早市泉町にある酒井家の墓所(酒井百合子の墓碑)
諫早市泉町の墓地近くから雲仙を望む


『なれとわれ』
 

新妻にして見すべかりし
わがふるさとに
汝(なれ)を伴ひけふ来れば
十歳を経たり

いまははや 汝(な)が傍らの
童(わらべ)さび愛(かな)しきものに
わが指さしていふ
なつかしき山と河の名

走り出る吾子(あこ)に後れて
夏草の道往く なれとわれ
歳月は過ぎてののちに
ただ老の思に似たり

諫早市駅前(東口)。詩『なれとわれ』の舞台となった建て替え後の諫早駅。


『河辺の歌』
 伊東静雄詩集「わがひとに与ふる哀歌」より

 私は河辺に横たはる
(ふたたび私は帰つて来た)
曾ていくどもしたこのポーズを
肩にさやる雑草よ
昔馴染の意味深長な
と嗤ふなら
多分お前はま違つてゐる
永い不在の歳月の後に
私は再び帰つて来た
ちよつとも傷つけられも
また豊富にもされないで

悔恨にずつと遠く
ザハザハと河は流れる
私に残つた時間の本性!
孤独の正確さ
その精密な計算で
熾な陽の中に
はやも自身をほろぼし始める
野朝顔の一輪を
私はみつける

かうして此処にね転ぶと
雲の去来の何とをかしい程だ
私の空をとり囲み
山々の相も変らぬ戯れよ
噴泉の怠惰のやうな
翼を疾つくに私も見捨てはした
けれど少年時の
飛行の夢に
私は決して見捨てられは
しなかつたのだ

諫早市街地を流れる「本明川」(諫早駅前近く)。詩『河辺の歌』の舞台。
本明川越しに伊東静雄の詩碑がある諫早公園を望む


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