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「感染対策」という名の新たな「優生思想」


こんにちは開業医・医療経済ジャーナリストの森田です。

今回は、緩和ケア医の大津秀一先生が書かれたこちらの記事について考えてみようと思います。


大津先生はかねてから新型コロナへの感染対策強化、ワクチン推進の立場をとってこられてきた先生ですので、そちらの方向へ話題が行きがちなのは仕方ないのですが、そうは言ってもこの記事には少し違和感を感じました。それについて自分なりに整理してみましたので、今回しっかりその詳細を書いておこうとます。

記事のおおよその主張はこうです。

「高齢者が新型コロナにかかって亡くなるのは寿命だから、感染対策などは緩めて良い」などと、個別の事情を鑑みる視点が希薄な発信を行うのはおかしい。そこには、命の優劣に価値をつける優生思想的な背景があるのではないかと感じた。


確かに、年齢などによって一律に医療行為を規制するような制度には僕も反対です。人生はその人一人ひとりのもの。管だらけになっても長生きしたい人もいれば、そんな人生は嫌だと言う人もいる。医療はしっかりとその思いに寄り添うべきです。緩和ケアってそもそもそういう思想ですからね。

ただ、僕は思いいます。この記事は「高齢者は感染対策で命が救われる」という側面が重視されすぎていて「実は多くの高齢者が感染対策によって人生を踏みにじられている」という側面が見落とされているのではないか?と。


こちらはNHKの番組の1シーンです。

NHKおはよう日本より。

このおばあさんはホスピス病棟(緩和ケア病棟)に入院されています。おそらく余命幾ばくもないのでしょう。
ただ、彼女はコロナ患者ではありません。
彼女の人生の終末のこの瞬間にコロナはほとんど関係ないと言ってもいいでしょう。
それなのに彼女は病院の厳重な感染対策のおかげで家族と面会できない。家にも帰れないのです。
彼女の人生に対して果たして感染対策はどんな意味があるのでしょうか?
彼女の思いは尊重されているのでしょうか?
人生の終末を感染対策に踏みにじられてはいないでしょうか?

コロナ禍が始まってもう2年半。
未だに多くの病院・高齢者施設では「家族立ち入り禁止」「面会禁止」「外出禁止」などの厳重な感染対策が継続されています。

多くの高齢者が

「病院・施設から一歩も外に出れず」

「2年半もの長い間家族に会えていない」

のです。

感染対策は本当に高齢者のためのものなのでしょうか?


もちろん、感染対策が大事、という意見は理解できます。感染対策を緩め、ご家族との面会、外出を許可してしまえば、体力・免疫力の衰えてきた高齢者の皆さんの命は危険にさらされるかもしれません。

でも、そこまで含めて、

「人生の選択は本人が決めるべきもの」

なのでないか…と僕は思います。
病院のルールで一律に決められてしまうべきものでは決してありません。

そうした希望まで含めて患者さんを支援してゆくのが、本当の意味での「患者中心の医療」なのではないか?と思います。


僕はよく「反自粛派」とか「反ワクチン派」などと言われますが、僕自身は周囲の人や患者さんに「こうでなければいけない」というようなことは現場では一切言いません。事実、妻はワクチンを打っておりますし、僕の患者さんの中でもワクチン打っている人、打ってない人、千差万別です。
それは、医療における最も基本的な理念「全ては患者中心」という部分を、自分の主張にもまして重視すべきだと考えているからです。

詳細はこの本に詳しく書きました。


そうなのです。

高齢者なのだから、
病気なのだから、
障害があるのだから、
だから全員、厳重に感染対策をしなければならない。
施設から一歩も外で出てはいけない。
家族にもあってはいけない。


僕たちが医療者が、そんな上から目線で一律に感染対策を強いてしまうのだとしたらそれは、

「誰かにレッテルを張り、その人達の自由を奪い行動を支配する」

という意味で、まさにそれこそが「優生思想」に近いものなのではないでしょうか。


冒頭の記事に戻りましょう。さすが「患者さん一人ひとりの思いに寄り添う」緩和ケアに造詣の深い大津先生です。最後に大事なことが書いてありました。

まずは「隠れ優生思想」を見極めることである。

個別性を無視していないか
・本人の意思を無視した言論になっていないか
・医療や公衆衛生に関して、全体のことを慮って、ある属性の者は医療を我慢すべき、寿命を受け入れるべきという論でないか

これらがチェックポイントとなるだろう。

そうです。

まさに今、病院や施設の中では、

○個別性や本人の意思を無視した「外出禁止」「面会禁止」などの感染対策が

○病院や地域社会という全体の利益のために、「高齢者」「障害者」などの属性の者は一律に生活全般を規制されるべき

という「優生思想」的な思考が蔓延しているのです。


本来であれば、感染対策とは相反する希望でも、そこまで含めて患者さんを支援してゆくのが、本当の意味での「患者中心の医療」なのではないか?

と僕は思っています。


以上、「感染対策」という名の新たな「優生思想」でした。


○追記1

「そんなこと言っても、病院や施設の中でクラスターが起こったらどうするんだ?」

という意見が聞こえてきそうです。

参考までに、僕が行った高齢者施設クラスターでの診療事例を紹介しておきます。



○追記2

たしかに、

「感染症の脅威に対する公衆衛生的一律規制」と、
「患者さん一人ひとりの生活と思い」

は相反する表裏一体の関係であることが多いでしょう。

その意味では、感染症の世界では、その相反する2つの方向性のバランスを常に意識しながら見ていかねばならないのです。

今ある感染症、次に来る感染症、患者さんの思いを踏みにじってまで感染対策を取ることが必要な脅威なのか?あるいはそうでないのか?

しっかりと議論しながら社会全体の方向性を決めていくべきだと思います。

(先進各国で感染対策が緩和されているのはそのバランスがシフトしてきているからなのでしょうね。)





注:この記事は投げ銭形式です。

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私は経済学部出身の医師という立場から、このような過剰な感染対策によるデメリットを憂いていた。そしてそれを問題視する発信を続けてきた。だが、この「過剰にコロナを恐れてしまう風潮」は2022年になっても依然として継続している。
2022年1月の全国高校サッカー選手権の準決勝では、選手2人に新型コロナ陽性反応が出たとのことで関東第一高校が出場を辞退した。
まるで「コロナに感染したら社会の迷惑・厄介者」と言わんばかりの対応だ。感染してしまった当該生徒の気持ちを察するに余りある。
コロナ騒動が始まってもう2年も経っているのに…コロナウイルスが日本社会に与えている健康被害は非常に小さいことが統計的に判明しているのに…
社会の過剰反応は当初と何も変わっていないように感じる。
今後もこのような風潮が続くのであれば、それこそ「新しい生活様式」となって社会に定着し文化になってしまうのだろう。
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夕張に育ててもらった医師・医療経済ジャーナリスト。元夕張市立診療所院長として財政破綻・病院閉鎖の前後の夕張を研究。医局所属経験無し。医療は貧富の差なく誰にでも公平に提供されるべき「社会的共通資本」である!が信念なので基本的に情報は無償提供します。(サポートは大歓迎!^^)