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はじめに

『宇宙で唯一無二の自分を生きるために』

日々、頭の中でグルグル回ることをインスタでは書きにくいので、こちらに書く事にしました。
私は普段、毎日の生活から仕事中も含め、わりと内向的で哲学よりな思考をしているのだと周囲の人と比較して、そう考えています。
私のような人が誰かに向けて文を書くというおこがましさからではなく、考えを何処かで述べざるを得ない状況になっていると思い立ち文を書いています。
表現するにあたって使い良さそうなnoteを見つけたのでこちらに投稿していきます。

私は、20代後半からほとんどTVを見なくなりました。
いつだったか引越しのときに、また次に引越しをすることを考えたら物の多さに嫌気がさし使わないものを片っ端から捨てて迷った挙句TVも思い切って捨てる事にしました。
TVを捨てた理由は、毎日見て落ち込む見たくもないニュースや望まないゴリ押しのCMから無意識に影響を受けつつも、TVの電源をつい付けてしまっていることが気持ち悪く思えたからでした。
その頃考えていた事は、ニュースで流れる事件などは、無垢で何も知らない子供が見たら、こういう世の中なんだよとTVが概念を刷り込んでいるように見えていたことを今になってようやく言葉として表せるようになりました。

さまざまな情報が蓄積され、一度視点が変わると、この世の無料で得られる情報の大半がネガティブ、対立構造、苦しみ、痛み、償い、後悔、暴力、嫌み、妬み、嫉みなど、その言葉を列挙するだけでも、ためらわれる概念がさまざまな物語に意図して散りばめられていることが見て取れるようになりました。
勿論、ポジティブな内容もありますが、ネガティブな内容は痛みを伴い、人間の本能から自然に避けたいと無意識に考えるので、その反面、忘れないように強烈に記憶に残してしまうのです。
本心では嫌だとは思いつつも、見てしまったら強く記憶に残してしまうので、嫌だと思う事でも、それを自らやってしまう可能性もあるのです。

人の脳は否定系を認識できません。
例えば「日焼けをして髭をはやしたマッチョなおじさんが、青と白の縦縞ストライプのタンクトップを着て、頭にプラスチックの大きなプロペラを付けて、それを嬉しそうに回しているところを想像しないで下さい!」と言われても時すでに遅く、想像する前にはもう戻れません。
このように見たら戻れない不可逆的な構造が人の記憶にはあります。

この世界では、ある人の利益になるようなイメージを、映像、画像、音声として、マーケティング、経済成長、という現代の大義名分を正義として身に纏い、世の中のあちらこちらに散りばめられてきました。
私が今でもTVを見ていたら、逃げ場の無い焦燥感に苛まれていると思います。
いつから何のためにこの状況になったのでしょうか?
人々が正義を追求した結果なのでしょうか。
人が産まれてきた意味と、本来の目的、可能性について、ものづくりの視点を含めてご一緒に考察していきたいと思いますので、お付き合い頂ければ幸いです。


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