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影響の連鎖を断ち切る

『宇宙で唯一無二の自分を生きるために』

母から子が産まれ、子供はいちばん近くにいつもいる親の真似をしながら言葉や行動を習得していきます。
当たり前のことですが、人は慣れ親しんだことの度合いによって、そこからの影響を受けます。
人がもともと持っている性格もあり影響を受けにくい場合もありますが、近くにいる事で影響される確率は上がるわけです。
その特性を利用して、繰り返し伝えるという教育が行われるのですが、人という不完全な生物は意図していない影響を与えてしまう場合も、もちろんあるわけです。

本来、誰もが争いなどしたくないと考えているはずです。
しかし、つい争ってしまう要因は、人がおかれている環境の影響にあって、暴力的や、対立構造の映像などの表現に触れることで、暴力的になる確率は高くなると考えられます。
TVやゲームなどでは物語としてですが
、過激な暴力シーンを人に見せることは、ある意味概念の刷り込みであり、一度見たら見る前に戻ることはできません。
暴力的なシーンは生死に関わることなので、強く記憶に刻まれる事になります。人の脳には、扁桃体という原始的な部位があり、生死に関係するような体験に遭遇すると、無意識に、瞬間的に反応してしまい、情動的になることで理性的に考えることができなくなってしまうのです。

家庭で美味しいものを食べようとみんなで食卓を囲んでいても、食事中に良くないニュースがTVから流れていたら、そちらへ意識が向いてしまい、今を生きている自分たちの気持ちがそちらへ持っていかれてしまいます。
それが日常化すると、現実での食事を味わうことや、楽しい会話の時間までも、無意識に遠い所で起こっている事件の恐怖感に心を奪われてしまって、いずれそのことも日常となり、普通の事と捉えて疑わなくなります。
毎日TVがついていたら、いつ、リアルな自分の人生の時間を享受するのでしょうか。
ニュース以外にも、誰かの想像から出てきた物語を見せられている間は、自分の人生の時間は一時停止され、その物語の方ににリアリティがあります。
もちろん、そのような体験をしようと決めて、見たり聞いたり体験をすることは問題ではありませんが、ただ目的無くTVがつけっぱなしで何となく見ていると、そちらに意識が集中してしまい、それが日常化すると膨大な時間を誰かが作った物語に費やすことになりかねません。

暗示という言葉があるように、見たり聞いたりしてしまった事に無意識に影響を受けてしまい、そちらの方向へ意識が引っ張られることがあります。
脳は否定型を認識できないので、自分の望まない情報にも影響を必ず受けてしまいます。暗いニュースは必要以上に見ない、聞かないに越したことはありません。
TVという、大きな拡声器で流されるニュースは重要かもしれませんが、自分の心を不安定にしてまで全て付き合う必要もないのです。
ましてや、無意識に誰かの言う通りに、自分で調べもせず行動してしまう時は、催眠状態と言っても過言ではありません。
自分のリアルな生活の中で目の前に起こったことに対して、その時に相応に対処すればよいのです。

何故人は悩むのでしょうか?
私は子供の頃、感情的に怒鳴ったり、不平不満を言ったりする大人や、私より少し年上の子供たちの中で育ちました。
純粋な子供の視点から見ると、なんで毎日を穏やかに過ごせないのかな?
という気持ちでした。
何かのきっかけで、たまたまこの文を読んでいる方も、おそらく、そんな幼少期を過ごしてきた方も多いと思います。
自分が大人になって気づいたことは、物心ついた頃に、人に対してイヤだなと思っていた事を、大人になった自分がやってしまった時に、いろんな理屈を頭で述べて正当化していることです。
恐らく大体のケースでは、そのことに慣れてしまって意識にも上がらずに、過ごしてしまっているかもしれません。
しかし私が思うのは、誰が良いとか悪いとか、そういうことではなく、人の脳が、周りの環境に想像以上に影響されやすいので、その結果、問題点の多くは人が置かれた環境にによって問題が発生するのだと考えるようになりました。
この世の構造は、感情を持つ私たち人間のすべてが、嫌な思いをせずに暮らすことのできる世界のしくみになっていないのです。
もしかしたら、当たり前と思っている世界は、何かの意図をもって、その姿を刷り込まれているのかもしれません。
神話を見ても争いばかり。
その概念的な影響を与えるために作られた物語であるとしたら、作者が人の脳の構造をもし熟知していたら、そのように想像してみてください。
世の中は欺瞞ばかりではありませんか?
当たり前や普通とはなんでしょうか?



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