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Bluenote Taipei、50周年対談

2024年6月、Bluenote Taipeiの創立50周年ということで、創設者の蔡さんとサックス奏者の楊曉恩老師との対談がありました。蔡さんが往時の出来事を語り、楊さんが司会進行役という対談でした。
一時間半のお話は、台湾のジャズの歴史を語るとても面白い内容でしたので、ここで紹介します。

文章は、蔡さんの話す一人称として整理しています。

左が蔡爸、右が楊曉恩老師

ジャズに親しむ

子供の頃、カッコいい音楽というのは軍楽隊の音楽でした。そのため、各地の中学校に管楽器のクラブがありました。そこでトランペットに触れ、家に持ち帰って練習をしていました。大きな音を出す楽器なので、家の人には隠れて練習していました。

故郷の南投土庫の街には、50人編成もの大きなマーチングバンドがありました。これは日本統治時代に音楽教育を受けた先生がいて、皆を指導していたのです。このころでも優秀なミュージシャンは台北に出て、"ナガシ"をやったりしていました。

このころ、音楽を聞くにはまだレコードは高価な時代でしたので、ラジオから流れる音楽を聴くだけでした。街の薬やのラジオから"美國之音"(Voice of America)の番組をよく聴いていました。そこでグレンミラーの音楽にはまりました。

軍役を経ずにいたので、台北での就職は難しかった。なかなか良い仕事は見つかりませんでした。たまたま、全国の軍楽隊の集まるコンサートに行ったときに、知り合いの音楽の先生に会い、彼の引き合いで"政工幹校"(現在の國防大學)に入ることになりました。この学校では、国民党の音楽家達ので世代交代のために、台湾の若者を育てることを始めており、私はここの第三期生として入学したことになります。この政工幹校で音楽を学んだことが私の唯一の音楽の勉強です。

このころの中山北路のホテルでは、どこでもジャズバンドを置いて演奏していました。ベトナム戦争の影響で、米軍も駐留しており、外国人ミュージシャンも来ていました。この様な環境のなか、台湾のジャズはだんだんとそのレベルが上がっていきます。そして自分もこの音楽を好きになっていきました。

Bluenoteを開業

学校を卒業して本当はそのままミュージシャンになりたかったのですが、父親の反対で会社に就職することになりました。入社したのは"功學社"、ここで品質管理の仕事に着きました。毎日百本ものトランペットを吹いて音質を確かめる単調な仕事です。この作業はどうも性に合わなかった。一年ほどでこの仕事は辞めました。

辞めた後に、同じ功學社でハーモニカの検査の仕事をしていた家内と結婚し、好きなジャズに関した何かの仕事をしたいと考えました。そして、永康街公園の一角に小さな3坪ほどの店を構えました。そこで楽器やカセットテープを売るお店としてBluenoteはスタートしました
しかし、あまりに小さかったのでそこは1年ほどで引越ししました。次のお店は音楽教室をやりました。しかしそこではジャズの演奏はなくとてもつまらなかった。
その後に引っ越したのは、公館の台電大樓ビルが建つより前に、その場所にあった建物でした。2階を店舗に、そして3階をライブや練習のスペースとして、新たに営業を始めました。

その頃、日本人の内藤さんと知り合いました。彼は熱狂的なジャズファンで、日本からたくさんのジャズのレコードを持ってきていました。
私のお店に彼は毎日のように来てそのレコードを来ていました。当初は名前はBluesでした。ジャズ色の濃いBluenoteという名前は避けたのです。
その頃の演奏内容はジャズには限りませんでした。フォークソングの流行っていた時代なので、その演奏が多かったです。ジャズの演奏は週のうち土曜日一回だけでした。このジャズライブの評判はなかなか良かった。そのようなジャズの好きな人が集まり演奏を楽しむことができる。そのようなスペースをつくろうと考えました。

お店の内装は、日本のジャズ喫茶によく似ていると言われますが、実はその頃は日本に行ったことはありませんでした。頭の中にある日本のジャズ喫茶をイメージして、インテリアをデザインしています。

アメリカ軍の駐留とフィリピンのミュージシャン

戒厳令が施行されていた時代、アメリカの軍人もたくさんいて、ジャズはあちらこちらのアメリカンクラブで、盛んに演奏されていました。そこで演奏していたのは、多くのフィリピンのミュージシャンでした。フィリピンはスペインとアメリカの植民地だった歴史があり、ジャズに関する伝統も深く持っていました。それで、フィリピンのジャズミュージシャンがたくさん台北に来て演奏していました。

この頃の台北は、戒厳令下ではありましたが、とても自由な雰囲気の街でした。

米中断交に当たって

Bluenoteを始めた1974年頃は、中華民国が国際的に孤立し始める時代でした。お店には沢山の新聞記者が来ていて原稿を書いていましたし、軍関係の友人からもその様な話を聞いていました。
アメリカとの国交が断たれるのは1979年ですが、1970年ころから段階的に進んでいった出来事です。ですので、アメリカ軍がいることによって栄えているその時のアメリカンクラブなどの繁栄が、そのままずっと続くとは考えていませんでした。

小さな店を守る

その様な考えだったので、Bluenoteは小さなお店のまま、自分の運営したい様にできる規模でやっていこうと考えました。投資者を募って、大きな店を展開するという風にはしたくありませんでした。そうなると自分の好きなスタイルを維持できなくなってしまいます。

陳水扁総統の時代、政府は新たな民主主義の時代ということで、新しい文化を紹介したがっていました。その様な潮流の中、Bluenote Taipeiのジャズライブは何度もメディアに紹介されました。

Bluenoteという商標

Bluenoteという名前は、アメリカのレコード会社Bluenoteと同じです。しかし、この名前を商標登録申請したところ、政府からOKが出ました。これは、アメリカのBluenoteがレコード制作会社であるのに対し、我々のBluenoteが飲食店の範疇であり、別の業態だったからです。後にアメリカでライブハウスのBluenoteが開店していますが、これは我々が商標登録してから2年後のことです

ジャズミュージシャンにとってのマイホーム

(下記は、楊曉恩老師の発言です。)

Bluenoteは、我々台湾のジャズミュージシャンにとって、自分の家の様な場所です。

私が初めてジャズに触れたのもこのお店です。中学生の時、勇気を出して恐る恐る店に入ったところ、カウンターの中からジャズの映像を見ながらジャズのことを話す蔡爸を見て、思わず退散してしまいました。
周りのミュージシャンが海外に留学していて、自分はどうしようかと迷っていた時に、既にバークレーから帰ってきていた張坤德先輩から「行け!」と背中を押されたことがあります。それもこのお店での出来事でした。

今お店のカウンターに立っている李さんは、私と一緒に台湾でジャズに取り組み始めたピアニスト、烏野薫さんのお嬢さんです。彼女は子供の頃からこの場所でお母さんがジャズの演奏をしているのを聞いています。彼女にとっては、Bluenoteは本当に家の様な場所でしょう。

蔡さんは、海外旅行もほとんどせずに、毎日この家を守ってくれていました。そして、多くの台湾のジャズミュージシャンがここから巣立っていっています。誠に感謝しています。

新しい時代への抱負

今は、この楊曉恩老師を始め、ジャズを深く学んだミュージシャン達が台湾の大学やその他の学校で教鞭を取り、若者にジャズを教えています。そして、たくさんの若者がジャズという音楽を学び、楽しんでいます。

このBluenoteも、新しい店長"阿哲"に任せています。これからも、世界中のジャズの愛好家が集う場所として続いていけるよう祈っています。

感想

僕は既に別の投稿で、台湾のジャズの歴史を紹介しています。そこでは、100年間に渡る台湾のジャズの歴史を書いていますが、そのうち実に50年という時代をこの蔡さんはBluenoteというお店を経営しながら経験しています。

米中断交の前夜にお店を構え、政治が民主化に移り変わる中で、ジャズが新しい音楽として脚光を浴び始めること。初めは3坪という小さなスペースで、ジャズ愛好家が集う場所でしかなかったなど、とても興味深いお話でした。

何よりも、大好きなジャズという音楽を、商業主義に流されることなく、堅実に自分のコントロールできる範囲で続けていること。そして、それが今、新しい世代に確実に受け継がれているのだということがよく分かりました。

僕は、この日初めて蔡爸に会いました。これまで何回もライブを聞きに来ているBluenoteですが、この様な話を聞いて、さらにこのお店が好きになりました。

「Blue Note Taipei: 台北ジャズの聖地」

下に"Undiscovered Taipei"というウェブページで紹介されている、Bluenote Taipeiの記事を紹介します。2020年の文章です。

Taipei 2020年秋季号

https://www.travel.taipei/ja/pictorial/article/24841


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