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【明清交代人物録】洪承疇(その二十)

南明の最初の皇帝は弘光帝と言います。彼は南明の中でも特に評判が悪い。何故このような人物が担ぎ出される様なことになったのか。そして、どの様な人物が彼の元に集まっていたのか。まずこの小王朝の概要を説明します。

萬曆帝と鄭貴妃

このシリーズの2回目で、明朝末期の皇帝の概要について説明しました。その中で萬曆帝の政治の表舞台での印象を簡単に述べましたが、この皇帝は後宮の運営にも大きな問題を抱えており、それは明朝の屋台骨を揺るがす事態に発展していきます。

萬曆帝には長らく息子ができなかったそうです。そのため朝廷は多くの妃を選び出し、後宮に入れました。その中で萬曆帝の寵愛を最も受けたのが鄭妃です。
しかし、その後萬曆帝の正妻王恭妃は、幸いなことに男子を授かりました。後の泰昌帝です。一方、鄭妃は萬曆帝のお気に入りであることから、3人の子供を産んでいます。1人目と2人目の子供は夭折してしまいましたが、3人目の男子は健康に育ち始めました。鄭妃はこのことから貴妃に任じられています。正妻ではないが、皇帝の子供を産んだ妃として尊ばれたということです。
鄭妃はこの地位を得たことにあき足らず、この息子を皇帝にしようと陰に陽に策略をめぐらし始めます。

國本之爭

鄭貴妃は萬曆帝の寵愛を一身に受けていました。ですので、まずこの夫である皇帝に、息子を皇太子に立てる様懇願しました。萬曆帝も王恭妃と長男のことを嫌っていたので、それは自ら望むことでもありました。その意思を朝廷に働きかけたのです。

しかし、このことは明朝の政治を分断する大騒ぎになってしまいます。これを國本之爭と言います。国の本というのは皇太子のことです。儒教の倫理観では、年長者を立てる。兄弟の中では長男が相続者になるというのが基本理念になります。明朝では第三代皇帝の永楽帝が、長子相続の観点から皇帝となった甥の建文帝を廃して皇帝となる、ある種のクーデターを起こしています。その様な前例があることから、朝廷はこの萬曆帝の要請には全面的に反対を唱え続けます。この皇帝と朝廷間の闘争は、実に15年も続いたそうです。
最終的には、萬曆帝の母である慈聖皇太后の判断を仰ぎ、皇太子は皇后の息子である朱常洛とすることになりました。彼が後の泰昌帝です。そして、鄭貴妃の息子朱常洵は、福王に任じるということで決着しました。
しかし、この騒ぎは萬曆帝が政治から背を向け、朝臣との関係を悪化させる結果になってしまいました。また、南明の弘光帝というのは、この福王朱常洵の息子です。心情的にも人間関係的にも、朝廷の主流派、文人系の官僚に背を向けてしまうことになります。宦官派に着くわけです。

梃擊案

萬曆43年1615年、ある暴漢が皇太子朱昌洛の邸宅の敷地内に侵入するという事件がありました。手には棍棒を持ち、警備をしていた宦官を倒して建物内に入ろうとしたところを、皇太子警護の兵に捕えられました。男は名を張差と名乗り、鄭貴妃の差配でやったことであると白状しました。
この事件は、皇帝に報告されましたが、萬曆帝は寵妃のこのスキャンダルを黙殺しました。これは明末の3つの不審事件(明末三案)の1つ、梃擊案と呼ばれています。

紅丸案

萬曆48年1620年、萬曆帝が崩御し、皇太子朱常洛が明朝第15代皇帝になりました。泰昌帝と呼ばれています。鄭貴妃は皇帝に取り入るために、多数の美女を後宮に入れました。泰昌帝は彼女らを気に入り、夜毎房事に励みましたが、それがたたり病に伏してしまいました。
筆頭宦官の崔文昇が、皇帝のために丸薬を調法し飲ませたところ、泰昌帝はそのまま亡くなってしまいました。この不祥事も鄭貴妃の仕組んだことだと噂が絶えませんでした。この事件のことを紅丸案と言います。

福王

萬曆帝の時代の言うなれば家庭の事情ですね。中央集権の皇帝制をとっているので、家庭の事情が朝廷の政治に少なからず影響します。そして、鄭貴妃から連なる福王の家系は、この様な政治的、人的背景を持っていたということです。
15年に渡り、自らの皇位継承を反対され、福王という一地方の藩王にされた朱常洵は、朝廷の官僚たちをずっと憎んで敵視していたことでしょう。

この初代福王は、洛陽の都で贅沢を極めた生活を送っており、市民の怨嗟の的となっていました。そのため、李自成の農民軍が洛陽を落とし、福王が捕えられた際には、李自成は彼の肉をスープの中に入れて食べてしまったという逸話が残っています。

息子の朱由崧は李自成に攻められた際、何とか洛陽から逃げ延びることができました。河南省懷慶府で崇禎帝から福王に任じられています。

その後、崇禎帝が北京で自害し、清朝が北方で成立した際に、明朝の副都である南京では、新たに誰を皇帝に立てるべきか相談が始まりました。崇禎帝の直系の親族達は皆、北京で殺されてしまっており、地方に送られていた親王から皇帝を選出することになりました。

福王朱由崧は、血統的には崇禎帝に最も近い位置にあったそうです。そのため、血筋からいくと彼が新たな皇帝に選ばれて然るべきと考えられました。しかし、前述した様にこの福王の家系は、文人官僚と犬猿の仲になっています。南京の官僚たちはこぞってこの人選に反対し、潞𡈼朱常淓を帝位につける様動き始めます。福王は国に忠実ではなく、両親に対する孝行心がないので相応しくないと言うのです。
この経過を見ると、文人官僚達も実は儒教の理念から物事を判断しているのではなく、原則を曲げてでも、政治的な判断を優先させていることが分かります。

最終的には、宦官グループとのパイプを持っている馬世英が押し切って、福王を皇帝とすることに決着しました。東林党を主とする文人官僚達は遠ざけられることになります。

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