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【明清交代人物録】洪承疇(その五)

陝西で洪承疇と農民軍は死闘を繰り広げます。洪承疇は情け容赦なく農民軍の殲滅を図り、農民軍も全滅の憂き目に遭いながら、しぶとく生き残っていきます。

陳奇瑜の失敗

三邊總督に任命された洪承疇は、明朝の大軍により農民軍を更に追い詰めていきます。農民軍は陝西から山西に逃げ込み、勢力は衰えますが反抗を続けます。崇禎4年から5年にかけて洪承疇は各地で農民軍を撃破し、数千人という規模で彼らを惨殺していきます。この様な成果を受けて、明朝内部では洪承疇の評価が高まっていきます。一方、この成功に対しこれを羨み、足を引っ張るような動きも出てきます。

農民軍は陝西と山西の地から追い落とされますが、その後河北、河南地方に逃走します。そして、その勢力は衰えるどころか、さらに勢いを増していきます。明の朝廷はこの地方を更に広範囲に統率し、農民軍を討伐しようと考え、五省總督(陝西、山西、河南、湖廣、四川)を任命します。しかし、この職に洪承疇は指名されませんでした。明朝内部には洪承疇の勢力が大きくなりすぎるのを警戒する動きがあり、崇禎帝もその意見を入れました。そして任命されたのが陳奇瑜でした。

崇禎7年1月、陳奇瑜はこの任命を受け、農民軍の追撃を図ります。一度は農民軍のリーダー高迎祥、李自成、張獻忠らを追い詰めることに成功します。しかし、ここで陳奇瑜は彼らは降伏するに違いないと考え、招撫策に出てしまいます。一度許されて解放された農民軍は、この危機を脱し、改めて地方に散らばり反旗を翻してしまいます。

崇禎7年11月、陳奇瑜のこの失策を見た崇禎帝は彼を罷免し、洪承疇を五省總督に任命します

農民軍、鳳陽を攻める

陳奇瑜の失敗の後始末をすることになった洪承疇は、各地でその対応に追われます。彼が陝西にその拠点を置き、巻き返しを図ろうとしていた時、河南の農民軍が安徽省に入り鳳陽を攻め始めます。この鳳陽は、明朝の初代皇帝朱元璋の生まれた地であり、明王朝にとっては重要な意味を持つ場所でした。農民軍は朱元璋の墓を荒らし、焼き払ってしまいます。

農民軍はこの地を占領する力はなく、すぐ撤退したのですが、ここを攻められた崇禎帝は怒り心頭に発し、洪承疇に無謀な命令を出してしまいます。農民軍のこの攻撃があったのは崇禎8年1月のことです。それに対し崇禎帝はその年の6月までに農民軍を殲滅せよと命じたのです。
洪承疇はこの無謀な命令に従わざるを得ず、大軍を改めて編成し鳳陽に向かいました。しかし、その時農民軍はすでに鳳陽を離れ陝西に移動中でした。洪承疇のこの動員は空振りに終わってしまいます。

この明末の農民軍は、後の紅軍のゲリラ部隊のようです。彼らは正規軍に正面からぶつかるという戦い方をしません。正規軍の裏をかき、強力な正面には当たらず弱いところを攻める。大軍に攻め込まれると逃げる。この様な弱者の戦略をとり、力を蓄えていきます。崇禎帝はこの様なゲリラ部隊に対応する方法を知らず、現地部隊に直接命令を出し彼らを混乱させることになってしまったのです。

陝西での農民軍の逆襲

洪承疇はあらためて陝西の農民軍を追い詰めようと動きますが、ここで敵方の戦闘力を正確に把握することに失敗してしまいます。上記の様に各地でゲリラ戦を展開し追い立てられている農民軍は、戦闘力は衰えているだろうと判断してしまったのです。実際は、この河南と安徽を経てきた農民軍は、その戦闘力を増していました。各地の農民の力を得ることに成功していたのです。

そして、この農民軍に立ち向かうことになった洪家軍は、逆に危地に飛び込むことになってしまいました。洪家軍で最も勇敢な将軍として名を成していた曹文詔が、農民軍の猛将高迎祥、張獻忠、李自成の挟撃を受け殺されてしまいます。洪承疇自身も危地に陥りますが、農民軍の連携が疎かになっている隙を縫って、何とか脱出することができました。

崇禎帝の無謀な命令により、明朝の軍隊が破滅的な危機に陥ることになるということ、それから農民軍はいくら倒されても、その貧困から抜け出す根本的な対応ができないために、いくらでもこの反乱軍に加わる農民が出てきてしまい、根絶のめどが立たない。洪承疇は、この様な構造的に如何ともし難い状況に追い込まれてしまっています。

体制を立て直し、高迎祥を生け捕る

崇禎9年、洪承疇は軍の体制を立て直し、農民軍が分散割拠している状態を見極め、各個撃破の戦略を立てます。農民軍は、有力なリーダーを持つと、その旗下で力を発揮するのですが、リーダー不在になると戦闘力を急激に失ってしまいます。そのため、洪承疇はこの時、農民軍のリーダー高迎祥を討ち取ることを目標にしました。この作戦は功を奏し、明朝の軍隊は高迎祥を生け捕ることに成功しました。
高迎祥は北京に送られ、見せしめのために惨殺されます。

李自成を取り逃がす

崇禎10年、新たに兵部尚書に就任した楊嗣昌が、3か月以内に農民軍を撃滅すると宣言してしまいます。楊嗣昌は楊鶴の息子で、父の失敗が招撫策により農民軍の首領を取り逃がしたことにあると考え、真逆の政策をとったわけです。しかし、この3か月という期間が短いことから、実現は到底不可能なものでした。崇禎帝の命により明軍が敗退してしまったのと同じ轍を踏むことになります。

洪承疇は、この事態を見越し、楊嗣昌の指揮権から離れ、李自成を追い詰めることに集中します。しかし、李自成はしぶとく生き残り、四川省に入って勢力を温存します。さらにそこからも追い立て攻めこみますが、そこから四川と陝西の省境に逃げ込みます。この李自成を取り逃がしたことが、後に明朝のとどめを刺すことになるわけですが、この時の洪承疇はそのような運命を予見することはできなかったでしょう。

この様な事態の変遷を見ると、明末の農民反乱というのは燎原の火に対するようなもので、火種がどこかに残っていると、それを火種にして火が燃え広がる。この火をいくら消しても消しても、火事が治まらない。そしてそれが最後には烈火になって王朝を焼き尽くしてしまった。そのような印象を持ちます。明末の農民反乱のリーダーはその火種の様なもので、彼らが生き残ると、次の火事に燃え広がるわけです。

崇禎帝は、この時点で陝西における農民反乱が一段落したと判断し、洪承疇を北京に戻し、帝都防衛に当たるよう命じます。洪承疇の農民反乱軍に対する戦いはひとまず幕を下ろしました。そして、休む間もなく洪承疇は東北地方の清王朝との戦いに送られます。東北地方の満州族の起こした清の軍隊は、農民反乱軍とは全く異なった相手でした。



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