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【明清交代人物録】洪承疇(その四)

陝西で洪承疇は農民反乱軍に対する最も有効な討伐軍として実績を積み、それに伴い彼の立場も次第に上がっていきます。その経過と、彼の政治的・軍事的な施策の特徴を見ていきます。

初期の招撫政策

明王朝にとどめを指す農民反乱軍として、李自成の率いる順軍が有名ですが、この時の農民反乱は、中国史の中でも期間が最も長く、先鋭的な活動をしていたとして有名です。
この時の農民反乱軍のリーダーは、王左掛、張存孟、高迎祥らです。彼らの反乱は同時多発的に、山西省、四川省などの多くの場所で発生し、そのために明朝側では有効な手を打つことができず、個別に懐柔策を取っていくことになります。

この農民反乱に対応するために、当初明朝は楊鶴という人物を陝西に派遣します。この時の役職は三邊總督と言い、延綏、寧夏、甘肅の三省の軍務を束ねる立場でした。彼は、陝西に全省に広がって起こっているこの事態に対し、招撫策を講じるしかないと中央に奏上し、その認可を受けます。そして、当時6、7万人という勢力となっていた神一魁という農民軍リーダーに対して懐柔策を取り、神一魁もそれを受け入れます。
しかし、明朝の招撫策を受け入れた農民軍は、その後何の事態の改善も見られないということで、改めて反乱の兆しを見せ始めます。地方の地主階級は、危険な状況が改善されないことに危機感を強めていきます。
多くの地域で、農民軍は官軍が現れると表面的には懐柔策を受け入れるが、官軍が離れるとまた反乱軍に戻るということを繰り返します。そして、楊鶴の懐柔策は効果を期待できないことが明らかになっていきました。

この経過を見て思うのは、この農民の反乱は、表面的な懐柔策では解決を見られない、社会全体の構造に起因する根本的な問題だったのだろうということです。
楊鶴は、招撫政策の失敗の責任をとり崇禎4年、三邊總督の職を解かれました。

洪承疇の政策

明王朝の軍隊は、農民反乱軍に対処する政策として、招撫策と強硬策を合わせ用いていました。鄭芝龍編で述べた様に、福建ではこの招撫策に乗った鄭芝龍が地方の軍閥として勢力を伸ばし、明王朝を支える勢力となっていくわけですが、陝西ではこの招撫策が裏目に出ています。一方、洪承疇はこの農民軍に対するに、常に強硬作戦をとっていきます。彼が名を挙げることになる韓城の戦いが、その一例です。

崇禎帝元年、韓城が農民軍王左桂に攻められ、この城を守っていた楊鶴が洪承疇に救援を求めました。洪承疇は彼の身近にいた、家人・下僕・人足等を私軍としてかき集め、戦場に向かいました。この私軍が洪承疇の指導のよろしきを得て、韓城の救援に成功します。そして、反乱軍500余名を斬首に処します。そしてその後二ヶ月に渡り各地で彼らは連戦連勝を重ね、"洪軍"として名を轟かせました。

この、王朝の末期に優れたリーダーの元に私軍が活躍するという図式は、後に清朝末期にも現れます。これは、逆に考えると明王朝の正規軍が軍としての体をなさなくなっている。軍資金が中央に搾取され、実質的に軍隊を運営していく経費がかけられなくなっている。そして、軍紀が乱れリーダーも軍隊に対する抑えが効かなくなっている。それに比して、リーダーの指導力の宜しきを得た軍隊は、農民反乱軍に対して組織力、武器を用いる火力の点で上回り、彼らを圧倒することができるわけです。

この"洪軍"の力の源が何処にあるのか。彼が集めた軍事勢力が、そもそも彼の私軍の様なものであったとしたら、これは元々彼が自らの資金で雇った私兵であったのではないか。これは中国の王朝末期によく現れる事象からの推測です。明王朝末期の鄭家軍にしろ、清王朝末期の李鴻章による准軍にしろ、地方に根拠を持ち、地縁関係と経済的バックボーンによりその軍事力を支え、確固たる政治勢力となっています。この"洪軍"もそれに近いものではなかったかというのが僕の推測です。

洪承疇はこれら農民軍は、仮に投降したとしても彼らを解放してしまえばまた叛逆するに違いないと考え、後顧の憂いを断つ手段に出ます。王左桂が投降してくると、彼を宴に呼び、武器を手放させた上で、これを殺してしまいます。
なお、この韓城の戦いでは、後の農民軍リーダーとなる李自成も王左桂の部下として従軍していたそうです。李自成は、明朝の招撫を受けることに反対し、一命をとりとめています。

三邊總督に就任

この農民反乱軍を徹底殲滅するというのが、洪承疇の政策の基本になります。この後も彼は、数度に渡り農民反乱軍を皆殺しにしていきます。そして、彼のこの行動は明朝の中央に認められ、楊鶴の招撫策が上手くいかないことから、楊鶴に代わり洪承疇が三邊總督に任命されることになりました。崇禎4年のことです。

これは、実にわずか2年で実現した、急激な出世です。崇禎2年の段階では、単なる陝西の兵站担当の下級役人でしかなかった人物が、2年後の崇禎4年には明朝の西北一体の軍務を司る三邊總督になっているのです。
この事態の推移には、洪承疇は平時の能吏、乱世の梟雄と言われた曹操の様な人材だったのではないかという印象を持ちます。乱世に活躍する人材は、卓越した軍事的才能を持つ人物が多いと感じます。曹操然り、ナポレオン然り。洪承疇は平時の官僚を育てる科挙のレールの上でキャリアをスタートさせましたが、陝西の農民反乱という事件の中で、埋もれていた軍事的才能を開花させた。そしてそれが屋台骨が崩れ落ちそうな明王朝の中では、他に代え難い能力であると評価され始めたのではないか。その様な印象を持ちます。

この様に明朝中央の評価を得て、洪承疇は農民反乱軍制圧に邁進していきますが、逆にこの農民反乱軍は、更に活動の範囲を広げていきます。その理由は、農民の生活が成り立たないという状況が、明軍による制圧では何ら改善されない、というところにあったのだろうと考えています。
明朝末期のこの時期は世界的な冷却期にあたり、農作物が育たないという、環境的に不利な状況にあるという説もあります。しかし、その様な天災的な理由と合わせて、明朝のシステムが、あまりにも農民を搾取し過ぎている。その様な人災的な側面も含んでいたのではないか。そして、この農民反乱は、中国の西方で燎原の火事の様に広がっていきます。陝西にとどまらず、四川、山西、湖広、河南が農民反乱軍の波に飲み込まれます。

洪承疇はその真っ只中に置かれ、農民反乱軍を殲滅していきます。それは、明朝中央からは有効な対応と認められるが、事態は次第に悪化の一途を辿っていく。彼はこの様な事態の推移に対してどの様な考えを持っていたのでしょう?
明朝の軍事指揮者としては農民軍を抹殺すべきであると、それが至上命題であったはずです。一方で、彼はそのキャリアの出発点として、刑部の役人として人々の訴えを聞くという仕事もしていました。その様な人間としては、農民の訴える声も耳に入っていたかもしれません。この悲惨極まりない、農民軍の反乱に対して彼らを殲滅するしかないという任務の間で、問題は農民軍にあるのではない、自分たち明朝のシステムの中にこそ問題があるのではないか、その様な疑念が生まれていたかもしれない。これは、小説的な想像です。




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