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学生時代のヨーロッパ旅行(その二、イングランド)

ティプトリーのInternational Farm Campは、5月から数ヶ月の間、果物の採集をヨーロッパの若者に手伝ってもらおうという事業です。僕がいたのは1985年5月から2ヶ月の間で、離れた時も200人に及ぶ若者がまだいたので、恐らくもう2ヶ月ほどはこの様な形で運営していたのでしょう。

この農場は今でも営業している様です。


農作業

応募した際には、ここではイチゴ摘みをするのが仕事だということでしたが、実際はイチゴ以外にたくさんの種類のベリー類の果物を採取しました。ブルーベリー、ラズベリーは聞いたことがありましたが、クランベリーなどというのもありました。

朝になると、作業用の荷台付きのトラクターに乗って、目的となる果樹園に行きます。近場で20分くらい、遠くても1時間以内くらいのところです。
現場に到着すると、このラインの果物を採取しろと指示をされます。小ぶりのバケツを受け取り、それにベリーがいっぱいになるまで摘んで、いっぱいになったらトラクターに戻ってチェックを受けます。詳細は忘れましたが、このバケツの数を管理人が数えていて、それがその日の出来高の給料として支払われていました。

ベリー類はその場で食べても構いませんでした。美味しいので初めはパクパクやっていましたが、すぐに飽きてしまい、その後は農作業に没頭する様になりました。

この農作業の熱心さはそれぞれの国で、だいぶ様子が違っていましたね。ドイツ、フランス、イタリアなどの若者はマイペースでゆっくり作業してきました。僕もその類ですね。
これがポーランドの若者では、皆がとても一所懸命にやっていました。彼らは、ここにレクリエーションや英語の勉強という目的できているのではなく、出稼ぎ労働者として来ていたようです。そのために故国にできるだけの外貨を持って帰るという熱心さだったのでしょう。

1日の間2回の休憩時間がありました。一度は10時半ごろ、2度目は2時頃。それぞれの時間には農場からサンドイッチと飲み物が振る舞われました。
おおよそ4時になると、同じようにトラクターに乗って宿舎に戻ります。この様な農作業を週5日続ける生活が続きました。

農場での生活

外国からの若者の宿舎は、トタンでカマボコ型に作ったバラックでした。ここに2列にベッドが並びます。大部屋方式のユースホステルみたいなものでしたね。セキュリティーにはあまり配慮がなく、ベッドの上に全てのものを置いていました。

食堂は大きな部屋が用意してあり、毎日そこで朝と夜、食事をしていました。印象に残っているのはポテト料理がとにかく多いこと。毎日の様にマッシュドポテトを食べていました。卵料理はスクランブルドエッグが多かったですね。他にベーコンや豆料理、これらが定番でした。ことさら日本料理を食べたいとも思ってはいなかったので、毎日美味しく料理をいただいていました。

ベッドはバラックでしたが、シャワールームとトイレは別棟になっていました。この部屋は若者たちが当番で清掃を担当していました。

夜10時ごろには消灯になり、照明は落ちます。しかし、そんな時間でもヨーロッパ各国からの人間が来ているので、いろいろな話をして過ごしました。

ヨーロッパ各国の若者たち

この様なキャンプなので、実にたくさんの国の人達がいました。どういう国から来ていたかということと、その当時の簡単な印象を書いておきます。

イタリア
イタリアは個人で参加している人が多かったです。北イタリアの人は色白、南イタリアの人は褐色の肌の色をしていました。彼らは皆、人懐こく、とても友達になりやすかったです。後半の旅行でイタリアにも行くのですが、その際にはラゴ・マジョーラ、トレント、フィレンツェ、ジェノバと4箇所の都市でこれらの友人のお世話になりました。

フィンランド
フィンランドから来ていたのは、サミー・ソイラ君1人でした。覚えているのは、フィンランド語の"夜"という言葉。おやすみを各国の言葉で言うのが、夜の決まりだったのですが、夜の言葉に大体・皆"N"の発音が入るんですね。イタリア後ブオナ・ノッテ、ドイツ語グーテ・ナハト等。これがフィンランド語ではウヴァ・ウアタとなり、全く異なってしまっている。それが興味深かったです。日本語はもちろん"おやすみなさい"で、皆の顰蹙を買っていました。
人となりはとても大人しく、静かな青年という感じでした。彼のところにも後でお邪魔することになります。

フランス
フランスは個人主義の国なのでしょう、やはり1人で来る人間ばかりでした。親しく付き合ったのは2名でしたが、もう何人かいた様に思います。

スペイン
スペインの人は、グループで来ていました。僕が友達になったのはマドリードから来た3人組。彼らも明るい人達でしたね。立ち居振る舞いとして、素朴な感じがありました。

ドイツ
ドイツの人たちはたくさんいましたが、友達にはなれませんでした。メンバーがとても多くなり、なかなか声をかけづらくなったこともあります。ただ、ラテン系の人たちの人懐こさはあまり感じませんでしたね。独立してグループを作っていると言う感じでした。

オランダ
オランダ人の印象はとにかく背が高い。男性では2mになるかと言う巨漢がいたり、女性でも180cmぐらいの身長の人がいた様に思います。
ドイツ人と同じ様に、彼らもグループで動いていました。

ユーゴスラビア
今から30年以上昔の話ですので、ユーゴスラビアという国が存在していました。この国から来ていた若者はとても多かったのには、理由があります。この農場のオーナーの奥さんはユーゴスラビア人だったのです。それで、故郷のユーゴスラビアのリュブヤナからたくさんの若者を呼び寄せていました。20人くらいはいたでしょうか。
この人たちもとてもフレンドリーで人懐こい感じでした。
特筆すべきは美人が多い。それが、プライドの高い様子はなく、とても気さくに友達になってくれるので、とても印象が良かったです。
後にユーゴスラビアのリュブヤナにも行きました。

ポーランド
先に書いた様に、ポーランドの人たちはここにお金を稼ぎに来ていた様なので、あまり交流はありませんでした。彼らが英語があまり話せなかったということもあります。
出稼ぎなので、何人かのグループで来ていました。アフターファイブで飲みに行くということもなく。とても孤立した集団でしたね。

トルコ

僕がキャンプに入って一月半ごろ経った時分にトルコからの一団がやってきました。彼らはイスラム教徒なので、クリスチャンのヨーロッパ人とは少し距離がある感じでした。
そんな中、1人友人ができたので住所をかわしましたが、残念なことに彼の住所を尋ねても会うことはできませんでした。

日本
この様なイギリスで運営しているInternational Farm Campに、日本人は延べで3人しかいませんでした。僕以外は2人とも女性。1人は以前このキャンプに来たことがあって、数年ぶりに再訪したと言っていました。もう1人は英語もままならずやってきて悪戦苦闘していましたね。

アフターファイブ

夕食の時間はだいたい5時半ごろ、30分もすると食べ終わるので、その後は三々五々、皆でレクリエーションをします。
僕がよくやったのは卓球。高校までクラブで卓球をやっていたので、少しはできました。そして僕のライバルはポーランドの青年。彼の方が上手くていつもやられてましたが、他に上手いパートナーもいなかったので、いつも2人で卓球台に向かっていました。

それからピアノ。アップライトのピアノが一台置いてあったので、好きに弾いていました。農場に置いてあったクラシックの譜面と、コルチェスターで買ってきたジャズの譜面を交互に弾いていました。これも、他にピアノを弾く人がいなかったので、ピアノは独占状態でした。

もう一つあったレクリエーションは、バーに繰り出すことです。農場の宿舎から歩いて30分ほどのところに小さなバーがありました。イングリッシュスタイルの暗い内装の、ビールを主体に飲ませるやつです。
そこでは、日本式のビールはラガーと呼ばれ、それ以外に黒ビールやら、ブラウンの濃厚なビールがあることを知りました。いくつも試した中で、僕には黒ビールのギネスが合うことを発見したので、それ以降機会があれば、ビールはギネスを頼んでいます。

ここには、日本人、イタリア人、フランス人と比較的仲の良いグループで繰り出しました。何度か地元のイングランドの客に嫌がらせを受けたこともありました。それは、階級分けの比較的しっかりしているイギリスでは、配慮すべきことだったのかもしれません。しかし、お店から拒否されるということはなかったので、ルール違反ではなかったのでしょう。

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