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“北京”と“台北”の英語表記

“Beijing”と“Taipei”

真山仁さんの小説に「ベイジン」という作品があります。これは中国の原子力発電所の危機を描いた冒険小説です。この“ベイジン”というのは“北京”の中国語の発音を羅馬拼音で表記した“Beijing”を、日本語でローマ字のままに読んだものです。“北”という文字を羅馬拼音では“Bei”と表記します。

僕は台湾の台北に住んでいます。この街の英語表記は“Taipei”です。台湾では“北”の文字は“Pei”と表記しています。こう書かれると我々日本人は“タイペイ”と発音してしまいますね。因みに台湾で使われる注音符號では“台北”は“ㄊㄞㄅㄟ”と表記し、“北”の発音は“ㄅㄟ”になります。

“北”の中国語の発音はどちら?

さて、“北”という文字は“Bei:ベイ”と発音するのが正しいのでしょうか、それとも“Pei:ぺイ”と発音するのが正しいのでしょうか?日本人に質問すると、大体の人が頭を抱えて、“Bei:ベイ”でしょうと回答が返ってきます。中国語で“Bei”と学んでいるから“ベイ”と発音するのが正しいと考えてしまうんですね。

中国語を学ぶと、中国語は有気音と無気音で発音を区別すると学びます。ですので、正解はどちらも無気音で発音する同じ音です。中国人も台湾人も同じ発音をしており、羅馬拼音の“Bei”も、台湾で使われている“Pei/ㄅㄟ”も同じ発音を示しています。では、その発音は“ベイ”が近いのでしょうか、“ペイ”の方が近いのでしょうか。

僕は、これは“ペイ”の方が近いと考えています。30年前に台湾で中国語は必然的に注音符號で学ぶことになりました。そこで“ㄅㄟ”と示されると、視覚情報で“Bei/Pei”ということに惑わされず、耳に頼ることになります。そうした場合、僕の耳には“ペイ”と聞こえたと言うことです。

中国語では、日本語で“ペイ”と認識される発音を、有気音と無気音に分けて発音しているのだと考えています。でも、それを同じ“ペイ”と書いたのでは分からないので、羅馬拼音では“Bei”と“Pei”とかき分けているわけです。

台湾の中国語の英語表記

では、台湾の英語表記はどうなっているのでしょうか。台湾で使われている英語表記は歴史的経緯があって複雑なのですが、ここではウェード式表記とします。無気音は“pei [p]”、有気音は“pʻei [pʰ]”と表しています。どちらも“ぺ”であり、それが無気音と有気音との別があるという認識ですね。

しかし、この有気音につけるʻ[ʰ]という表記は非常に面倒です。実際に台湾の地名でも有気音の場合でもこの記号は加えられていません。例えば埔里は“Puli”と表記し有気音ですが、有気音の“ʻ[ʰ]”がありません。それで、台湾では有気音も無気音も一律同じローマ字表記になってしまっています。

中華人民共和国の羅馬拼音

中華人民共和国では、この表記は問題であると考えたわけです。もっと中国語に即した、有気音と無気音を簡単に区別できるシステムにした英語の表記法に変えた方が良いと考えて制定されたのが現在の羅馬拼音なのでしょう。そして、ウェード式発音表記では使われなかった濁音の子音の文字を無気音の表記として使うことで、ローマ字を満遍なく使い、それで有気音と無気音を区別できるようになりました。

この羅馬拼音システムは現在中国語を学ぶ際、台湾以外のどの国でも採用されています。しかし、この発音記号は、有気音と無気音の別を、清音と濁音の別で表現してしまっているという矛盾をはらんでいます。このことを知っていればよいのですが、中国語の学習者は自覚できていない場合が多いと思います。“Bei”と書いてあってもこれは“ベイ”と発音するのではない、“ペイ”という無気音として注意深く発音することが必要です。

日本語での有気音と無気音の発音

因みに、日本人は日本語の中で、この二つの“ペ”を無意識に発音し分けていると僕は考えています。例えば、“しっぺ返し”の様に促音の後に使われる場合、これは確実に有気音のペになっています。“ペリカン”と語頭に使われるときは、どちらの場合もあります。強く発音すると有気音的に、軽く発音すると無気音的になります。“ア・カペラ”等と促音以外で中間部に使われる場合、大部分無気音で発音されます。

一方“べ”という発音が有気音になることはほとんどないようです。“べ”という言葉が促音の後につくこともないし、語頭についても有気音になりづらいのでしょう。それなので濁音を発音すると、中国語話者はそれは無気音であると認識してくれるわけです。

英語圏での中国語の表記

さて、英語で“北京”はどの様に表記されているのでしょう?

公式には“北京”は“Beijing”となっています。“北京オリンピック”は“Beijing Olympic”で、“北京空港”は“Beijing Capital International Airport”です。基本的に“北京”は“Beijing”となっており、これは英語圏では一般的に“べイジン”と発音されているようです。

ですが、そうでない場合もあります。アメリカの友人から“北京ダック”の話を聞いたときに、これは英語では“Peking Duck”と呼ぶのだと教えてもらいました。不思議に思い、アメリカ人は“Beijing”と“Peking”が同じ“北京”を表していることを知っているのかと尋ねたところ、おそらくその認識はほとんどのアメリカ人にはないだろうと言っていました。

北京大学

最後に“北京大学”の英語表記に触れます。北京には何度か行ったことがあり、北京大学で先生をやっている知人もいるので、北京大学のキャンパスにも行ったことがあります。それで北京大学の英語表記は“Peking University”であることは知っていました。それは事実としては知っていましたが、よく考えるとこれはおかしなことです。北京大学は何故“Beijing University”と表記しないのでしょうか?

中華人民共和国が羅馬拼音を制定したのは1958年のことだそうです。一方北京大学が設立されたのは1898年、その時点で60年の歴史を経ています。さらにこの大学は隋代に起源を持つ北京国子監に起源をもっているそうです。このような古い歴史を有する大学が英語の表記を“Peking”から“Beijing”に変更することに反対したのではないか、とこれは想像です。

明代に由来する発音

もう一つ不思議に思うのは、この“北京:Peking”という読み方は明の時代の発音だと思われることです。明朝末期のヨーロッパの地図に、アルファベットで“Peking”と記されている例があります。中国語の発音は満州族に統治されてから音韻が大きく変化したとされており、それが北京官話(Mandarin)と言われているものです。ですので“Peking”という発音は明の時代のものが保存されていると考えられます。日本語で“北京”を“ペキン”と読むのも“北京ダック”が英語で“Peking duck”と呼ばれるのも、それが由来になっているのでしょう。

しかし、その言葉が清朝末期になっても使われていたのは何故でしょう?外国と交流の深かった南部の中国語方言で“Peking”という言い方が保存されていたということでしょうか。台湾語では北京のことは“Pakkia”と発音します。これはペキンに近いですね。広東語ではどのように発音するのでしょうか。どなたか知っている方がいらっしゃれば教えてください

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