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【明清交代人物録】洪承疇(その九)

陝西から北京防衛に呼ばれた洪承疇は、すぐに東北の対後金の戦いに送られます。この戦場は、勝つためには皇帝に逆らわざるを得ず、そうすると皇帝に殺されてしまう、皇帝の命令に従うと後金の軍隊に殲滅されるという、明の将軍達の死屍累々たる墓場でした。

洪承疇も同じ憂き目に遭います。これは、逃れることのできない運命だったのでしょう。そして、そのことはこの戦場に送られる時点で、彼にはある程度想像できていたのではないでしょうか。過去20年に渡ってここに送られた明の将軍が、どの様な運命を辿ってきたのか、彼には十分なデータがあったはずです。それとも、彼はこの戦いを勝利に導く自信があったのでしょうか?

薊遼總督に任命さる

崇禎11年(1638年)、後金から清と王朝の名を変えた満州族の軍隊は、東北の地から北京近郊に攻め込み、薊遼總督であった吳阿衡を殺してしまいます。すでにこの時点で、北京城は風雲急を告げています。しかし、この時ホンタイジは一旦清の軍隊を東北に引き上げさせています。ホンタイジは、中国全土を手中に収めた場合、これを統治するには満州族の力だけでは不十分と考えており、より多くの漢民族の人材を味方につける必要があると判断していました。

この時に空白となった薊遼總督の席を埋めるために、崇禎12年洪承疇がこの役割を担うことになりました。この役職は、中国の東北地方と北京の間の地域一帯を管轄する仕事です。

清朝の戦略

清の崇徳5年、明の崇禎13年、この時点で明から降った将軍祖可法、張存仁らは戦略方針として直接北京を攻撃することを上奏しています。一方でホンタイジがこの案を受け入れない可能性もあると考え、次案として、錦州と寧遠の地をまず占領下に置き、その後に中原を目指すという戦略を示します。祖可法らはこれは下策と考えて提案しましたが、ホンタイジはこの策を採ります。これは、山海関を落とすための戦略的要地なので、この地を攻略してからようやく山海関をこじ開けることができるという、定石的な考え方であると言えます。

興味深いのは、漢人のブレーンは既に明朝の命脈を見限っていて、北京を直接攻撃しても落とすことができると考えている点です。ホンタイジはこの策を採りませんでしたが、漢族の将領には明朝の姿はこの様に映っていたわけです。

この戦いの主導権を握っているのは、終始清朝側でした。そして、彼らは次の戦略目標を錦州に定めました。この地で、洪承疇とホンタイジの戦いが繰り広げられることになります。

錦州・松山の戦い

清軍はまず義州の要塞化を始めます。この地を錦州を攻める拠点とするためです。そして、錦州を完全包囲し外部から孤立させ、籠城状態の持久戦に持ち込むことを考えました。明朝の優れている点はこの籠城戦です。清朝の軍隊は野戦に優れている。しかし、この籠城戦を長期に渡って続けることができれば、籠城軍は居ながらにして自滅していくことになります。この様な我慢比べの戦いをホンタイジは仕掛けているわけです。

錦州城を守っている将軍は、過去清朝に帰順しながら、またこれを裏切り明朝に戻った祖大壽という将軍でした。清朝側はこの様な将軍に対して、さらなる寝返りを促す様仕向けています。この段階で漢人の人材を更に用いようと考えているわけです。この様な態度で錦州城に臨み、これを長期的に打ち崩すよう様々な手法で取り組んでいきます。
この様な戦術を提案しているのは、張存仁という漢人のブレーンです。清朝においては、既に漢族の将領を戦略の策定に用いています。

この前哨戦の段階で、洪承疇がこの戦場にやってきます。
清軍の組織が、皇帝ホンタイジの元、統一した軍事行動を採ることができるのに比べて、明の軍隊は遠く北京の地に崇禎帝がいる状態の上、現地には洪承疇の他にも様々な立場の人物がいました。彼の行動はこれらの人間の判断の影響下に置かれざるを得ません。それらの人物のことに簡単に触れます。この戦場で、洪承疇は絶対的な権力を持つ第一人者ではなかったということです。

祖大壽
錦州の城を守っていたのがこの将軍です。彼は過去、既に清軍に降伏したという経歴があります。その経験からでしょう。野戦においては清軍に敵わないことを熟知しており、徹頭徹尾、錦州城に籠ることを主張します。

陳新甲
陳新甲は兵部尚書の地位にある人物です。この役職は朝廷中央で軍事に関する全てを司るものですので、洪承疇の薊遼總督よりも位は上になります。洪承疇は明王朝の一武将として、この陳新甲の指示に従わざるを得ません。

吳三桂
後に、山海關で清軍に門戸を開き劇的な役割を担う呉三桂ですが、この錦州を巡る戦いでは、洪承疇の元遊撃部隊として動いています。彼は、錦州を守る祖大壽の甥にあたり、長期的に中国東北地方の戦いに参加しており、清軍という敵情を的確に把握していました。

このような明側のプレイヤーには、更に最高権力者として崇禎帝がいます。この様な状態で戦場において最適な判断ができるか否かと考えると、客観的に見て非常に心許ないところがあります。

錦州救援

義州を拠点とし、長期的な戦略で錦州を攻め落とすというのがホンタイジの戦略です。この錦州の城は籠城戦が始まった時点では充分な糧食を蓄え、持久戦に備えていました。そしてこの錦州を、猫の子一匹漏らさない形で、清軍が包囲しています。
この睨み合いに耐えきれなくなったのは、崇禎帝でした。彼は、山海関に陣取っていた洪承疇に対し救出の軍を送るように命令を下します。清軍の包囲網を突破して錦州城に入り、この城を救出するようにというのが、洪承疇が命じられたことでした。そのため、彼は根拠地としていた山海關を出、3万人の軍を従えて錦州の郊外、松山の地に向かいました。



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