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【明清交代人物録】洪承疇(その十二)

ここで、清朝に降った一人の明の文官のことを説明します。名を范文程と言います。彼は三国志で言うところの、諸葛亮の様な役割を初期の清朝において果たしている人物で、ヌルハチの時代から後金に仕え、ホンタイジの参謀・政策立案者として活躍しています。最終的には康熙帝の時代まで清朝において重要な立場の文官として働き続けています。
特に、ホンタイジからドルゴン・順治帝にかけての時代、明朝が倒れ清朝が取って代わるという時に、この漢族の参謀が果たした役割はとても大きかったように思います。

その様な人物なので、松錦の戦いの後、洪承疇の説得にあたっては、この范文程がとても大切な役割を果たしていたに違いないと僕は考えています。

范文程

范文程は萬曆二十五年(1597年)の生まれですので、萬曆二十一年生まれの洪承疇とは4歳しか歳は違いません。ほぼ同じ世代です。
范文程はヌルハチが萬曆四十六年(1618年)に撫順を攻撃した時に、21歳で兄范文寀と共に自ら進んで後金に降っています。范氏兄弟はこの時点で既に明朝の命脈を見限り、満洲族の元で仕える道を選んだのだと言われています。このことをもう少し詳しく見てみましょう。

ヌルハチの撫順城攻略

このシリーズの第3回で述べた様に、中国の東北の地では張居正から全面的な信頼を得ていた李成梁が、この地方に割拠する"王"として君臨していました。"地高皇帝遠"、辺境の地で多くの少数民族に囲まれていた李成梁は、"夷を以って夷を制す"政策を実施し、少数民族を互いに争わせ、消耗させることでこの地を統治していました。

このことを把握し、少数民族が団結して漢族の政権を打破しようと、明朝に対する"七つの怨恨"を掲げてヌルハチは後金国を立てます。この様に明に対し反抗の狼煙を上げている時点で、ヌルハチは明朝に取って代わろうと考えていたのだと思われます。

そのためにネックになるのは満州族の数が少ないこと。後金王朝は、モンゴル、朝鮮族とも協調路線を図ります。そして、ヌルハチが撫順を攻略する戦いの際、漢族に対しても投降を呼びかけ始めています。この時の撫順城の守将は李永芳でした。

「汝撫順所一游擊而,縱戰亦必不勝。汝素多才智,識時務人也,我國廣攬人才,稍堪驅策者,猶將舉而用之,結為婚媾。且汝出城降,則我兵不入城,汝之士卒皆得安全。」

《清史列伝》巻78

「貴方は、撫順城では一介の遊撃隊長でしかない。仮にこの戦闘で戦っても、勝つことはないであろう。貴方は才能に恵まれているし、時勢を理解している人物と見受ける。我が後金国は広く人材を求めているが、今のところ政策を立案する人材に欠けている。仮にその様な人材が現れれば、すぐに登用し、我が種族の女性の婿としよう。貴方が城を明け渡せば、私は城に兵を入れないことを約束する。あなた方士卒の安全は私が保証する。」

李永芳はこの様な勧告文を受け取り、抵抗を諦め590名の士卒と共に後金軍に降りました。彼は、初めてヌルハチの元に降った明の将領になります。そしてヌルハチはこの約束を守り、李永芳を三等副将に任命、そして満州族の将領アバタイの娘を李永芳と結婚させました。この様な待遇を受けた李永芳は、その後ヌルハチの一将軍として、その恩に報いていきます。

この時、撫順城からヌルハチの元に降った士卒の中に、范文程とその兄范文寀がいたのだと考えられます。清史稿の范文程の項には、この時この兄弟は自ら進んで後金軍に降ったとありますが、この時の范文程の歳は若干21歳。一方、李永芳はこの時既に35歳になっています。この歳の差を考えると、范文程の兄弟は、主体的にではなく上司の意向に沿って後金軍に降ったと考えるのが妥当である様に思います。

名家の後裔

この様に、若くしてヌルハチの元に降った范文程ですが、ヌルハチはこの若者のことをとても気に入った様です。この時、范文程は瀋陽中衛學の生員となっていました。これは科挙のレールの上では、準合格者の位置付けで、次の試験で合格できれば挙人となり正式に明朝の役人となれる資格を得られるというものです。
范文程の家系は、遠く宋の時代の大臣、范仲淹を祖先に持っており、明朝においても嘉靖帝の時代に兵部侍郎を務めた人物がいます。彼は、この様な中国の文人政治家を教育するレールに乗った、将来を嘱望される若者であったと考えられます。

満州族を主体とする後金国には、この頃までこの様な人材は全くいませんでした。専ら武人畑の人材ばかりで、文人政治家になる様な訓練を受けた人間は皆無でした。そのため、ヌルハチはこの若者が後金国に加わったことを非常に喜び、彼に国家運営と外交政策の上でのアドバイザー的な役割を与えたのだと思います。
この時、ヌルハチは59歳、一方の范文程は若干21歳の若者でした。

この様な経緯で後金に加わった范文程ですが、ヌルハチの時代は学習と雌伏の時期、本格的に国政に関わるのは次の皇帝ホンタイジの時代になります。
ホンタイジがヌルハチの後を継ぎ、後金国皇帝となるのは1636年です。この時范文程は39歳。既に満州族と共に18年という歳月を過ごしており、中国の古典教養を身につけた上で、満州族の思考や風俗も深く理解しているという、稀有な人物になっていたと思われます。ホンタイジは范文程を信頼し、彼を国政を担う中枢の役職、內閣大學士に任命しています。

この役職は、明の官僚組織に準じています。皇帝の私的諮問機関であり、皇帝に直接政策のアドバイスをするのが仕事になります。清朝の初期では、満州族各部族のリーダーによる合議制が、政策決定の中枢でしたが、その様な少数民族の部族の集まり的な政体から、徐々に漢民族の皇帝制中央政権に移り変わってゆきます。范文程はその様な過渡期に、後金においてこの內閣大學士という重要な職務に就いています。

松錦の戦いの後、洪承疇に対し後金から様々な説得工作が試みられますが、その中にこの范文程からの説得もありました。そのためこの人物のことを少し説明しました。
次回は、何故洪承疇が明朝への忠誠という、朱子学的な忠の義を捨てて、後金国の元で働くことを肯んじることになったのか、その経過を見ていきます。


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