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【明清交代人物録】洪承疇(その八)

明朝と後金軍の戦いは、新しいフェーズに入っていきます。明朝の皇帝は崇禎皇帝、ラストエンペラー、後金はヌルハチの跡を継いだホンタイジの時代になります。洪承疇は、端的に言うとこの崇禎皇帝の元で明朝に仕えることを断念し、ホンタイジの元で働くことになります。

ホンタイジ

このホンタイジの政策の元で、洪承疇は清朝で働くことになるので、ホンタイジがどのような皇帝であったのかを少し説明しておきます。

ヌルハチが健在であった時代、ホンタイジは兄3人と一緒に四大ベイレとして後金の集団指導体制の一角を担っています。3人の兄のうち、アミンとモンゴルタイは武断派でリーダーとしては相応しくないとされていました。一番上の兄であったダイシャンは、新たな皇帝となるチャンスはありましたが、最終的にはホンタイジにその地位を譲っています。
ホンタイジは、他の3人と比べて書物を読むことに長けており、その分智謀を有するリーダーと見られていた様です。

また、遊牧民族のリーダーの選出というのは、合議制で選出するという面があり、漢民族の皇帝選出の仕方と比べると、この段階ではとても融通のきく合理的なものであった様に感じます。それは、この後の順治帝の際もそうです。漢民族の皇帝選出は兄弟が血で血を洗う様な、とても悲惨な事態を引き起こしがちですが、この後金王朝から清朝にかけての皇帝の選出は、その経過ははっきりとは分かりませんが、結果として最適な解決策を平和理に行っている気がします。

朝鮮を攻める

ホンタイジは、袁崇煥と直接対峙することを避け、外交的な外堀を埋めることから始めます。朝鮮征伐です。
豊臣秀吉の文禄永長の役の際、朝鮮王朝は親国である明朝からの軍事的援助を受けていました。そのため朝鮮は心情的には明に近いところにいました。その状態のままでは、明との戦いが始まった際に後方撹乱をされる恐れがあるというので、後顧の憂いを断つことから始めました。1627年アミンが遠征し朝鮮王朝を後金に従わせる事に成功します。

漢族に対する宥和政策

また、満州族のみではなく、モンゴル族、朝鮮族も同盟を結んだ後金は、漢族が旗下に入ることを積極的に進めます。僕は、この多くの民族を統合して統治するという大方針は、このホンタイジの時代に本格化しているのだと考えています。ヌルハチの武断的な統治手法に対し、ホンタイジはどちらかというと策略をめぐらす頭脳戦に秀でており、それは対明王朝の大戦略から、この多民族を統治して満州族の王朝を運営していくという政治手法などに現れてきています。

明朝が崩壊したあとに、山海關における呉三桂が満州軍を受け入れてしまうという事件が有名ですが、それに先立って、このホンタイジの時代に多くの漢民族の軍人や官僚が後金の下に走っています。
ホンタイジは、多くの漢人を旗下に迎えることで、漢人の考え方、明朝の現状をより具体的に把握できる様になっていったと思われます。これは後に中国全土を治める際にも役に立つことになるわけですが、この段階、東北地方で明朝相手の戦いを繰り広げる際にも大きな力となります。

中国人の戦争観は、戦わずして勝利を収める。武力に訴えるのは下策であるという考え方があります。ヌルハチの時代では、彼のリーダーシップの下、軍事力で敵を叩き伏せるという、どちらかというと正攻法での戦争を行っています。
それと比べると、ホンタイジの時代の戦いは、その様な正面衝突の様な戦いは避けて、明朝の周辺から圧力をかけていき、明の軍隊が内部抗争で崩れていくのを待って最後の段階で、直接戦闘を行うというふうになっています。

この様な政略、戦略の変更はホンタイジの時代に明確になり、具体化しています。そしてこの様な組織に生まれ変わったことで、後の清王朝が中国の主になる基礎が築かれたのだろうと、僕は考えています。

袁崇煥を攻略する

ヌルハチを倒し、明朝に勝利をもたらした袁崇煥に対し、ホンタイジはいったん直接対決することを避ける方針を立てます。

袁崇煥は、ヌルハチが亡くなりホンタイジが後金の二代皇帝になるにあたり、祝賀使節を送っています。ホンタイジはこの使節を受け入れ、いったん明朝との関係を修復しようと考えます。この段階では、ホンタイジも袁崇煥も、互いに相手を殲滅することは不可能だと判断しており、共存を図ることを模索しています。これが、東北の戦場における現実的な判断だったのでしょう。
明軍が城に籠って専守防衛の作戦に出ると、後金の軍隊は手も足も出ず、被害だけが大きくなり撤退せざるを得なくなる。一方の明朝の軍隊は、城に籠っていれば後金軍を撃退することができるわけですが、後金軍を攻めるために野戦に向かうと、歯が立たないわけです。両者睨み合いの状況で、和議を結ぶということになります。
ホンタイジは、この時に後金の独自の年号"天聰"を取り下げ、明の年号の元に国を運営しても構わないと恭順の意を示していたそうです。

しかし、このことは東北の袁崇煥が独自に判断できることではありませんでした。この時の明王朝は、魏忠賢の牛耳っている熹宗皇帝の時代。反乱を起こした満州民族に対し、彼らの独立を認めるという判断はできませんでした。

明朝中央に後金との和議を進めることを拒否され、袁崇煥と後金はあらためて戦争モードに入ります。この時の戦いは錦州と寧遠で行われ、これまでと同じく、明軍は城に立て篭もり、後金軍を迎え撃つ作戦を取ります。そして後金の軍隊はここでも敗北を喫してしまいます。
この戦闘は"寧錦の戦い"と呼ばれ、袁崇煥の名を高らしめることになるのですが、明王朝の中央では、宦官の魏忠賢がこの功績を自らのものとすべく、袁崇煥を勝手に後金との和議を進めたという罪で弾劾してしまいます。

この時、熹宗皇帝が亡くなり、明朝のラストエンペラー崇禎皇帝の時代になります。崇禎皇帝はその治世の当初、魏忠賢ら宦官派勢力を処分するという、評価されるべき行動をとるのですが、袁崇煥の件ではまんまと後金にはめられてしまいます。後金からのフェイクニュースが流され、それを信じてしまうのです。
それは、後金の軍が北京郊外に現れた際に、袁崇煥がこれに通じたというものです。崇禎帝はこの情報を信じてしまい、袁崇煥を殺してしまいます。
この様にして、後金を相手にようやく勝利を勝ち取ることができた将軍を、崇禎帝は自らの手で殺してしまうのです。

大凌河の戦い

袁崇煥が亡くなった後、明朝の対後金の戦いは、又迷走を始めます。

城に立て篭もることを主張する現場、前線での軍事バランスを顧みず、後金軍の全滅を指示する中央。この時に皇帝になっていた崇禎は、宦官にコントロールされるということはありませんでしたが、紫禁城の中でそれぞれの地方からの文書の報告を読むことで物事を処理せざるを得ません。このことは、この時代の明の皇帝としては仕方のないことでした。遥か彼方の東北の地で、後金との戦いの現実がどうなっているのか、知る術はなかったでしょう。

片やホンタイジは、自ら最前線の軍隊を指揮し、明朝の軍隊と鉾を合わせ、戦闘の全貌を見通し、身近に漢族の参謀を得て敵の状態まで把握しています。トップ自ら戦いの全容を把握し、敵の弱点を硬軟合わせて攻略していく。
この2人の皇帝の戦争に対する姿勢は、この様に異なっています。

大凌河の戦いでは、袁崇煥の部下であった祖大壽が錦州の出城、大凌河城を守っていましたが、ここで兵糧攻めにあい降伏。その後、錦州も落とされてしまいます。
この戦いは1633年に起こっています。洪承疇が東北に投入されるのは1638年のことなので、もう少し時間はありますが、東北で起こっていた明朝と後金との戦いはこの様な展開を経てきています。

農民反乱軍との戦いでは、敵のリーダーは農民の中に現れたちょっとしたカリスマでしかありませんが、後金、後の清朝のリーダーホンタイジは、長期的視野を持って中華王朝を覆そうと考える人物でした。

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