「台湾のジャズミュージシャン100年の軌跡をたどって」(その三)
「探尋爵士樂手在台灣的百年足跡」の記事の翻訳、第三回です。
戒厳令解除後
その他にも、クラシック音楽の作曲家李奎然が1965年に「台北現代ジャズ協会」を設立し、バークレー音楽院の手法を用いてジャズの研究を始めました。翟黑山は彼の学生の1人で、先生の激励を受けてアメリカバークレー音楽院に留学しました。翟黑山は、1973年に学業を修めて帰国し、その後積極的に講座や勉強会を開きました。この頃のジャズを学んでいたのは、夜総会のミュージシャン、歌手たちでした。彼らはその後「底細爵士樂團」(ディクシージャズ楽団)を結成しました。
1970年代、依然として夜総会の活動は盛んでしたが、台湾の外交環境が厳しくなったため、若者達が自らの自主性に目覚め、校園民歌(campus folk song)の潮流が生まれました。1980年代になると中国語のポピュラーソングが流行り始め、夜総会は先細りになっていきました。これに従い、ジャズの活動の中心は次第に、講座によるレクチャー、コンボ演奏、それからアマチュアビッグバンドによる演奏に移っていきました。
戒厳令解除後:ジャズバーでの国際的なジャムセッション
1990年代、パブがジャズの演奏する場所として脚光を浴びてきました。例えば、Roxy、TU、Brown Sugar 等がそうです。ドラマーの黃瑞豐のバンドはTUでホストバンドとして長年に渡り演奏を続けました。このバンドには、サックスプレイヤーMet Francisco、ヴォーカリスト官靈芝らが加わっていました。黃瑞豐はそのキャリアの初期に台中 のCCK アメリカンクラブ、喜臨門や台湾電視台ビッグバンドで演奏しており、その後1970年代中頃からスタジオミュージシャンとしての仕事を始めています。彼の参加した録音は10万曲にも及んでおり、台湾のドラム王と称されています。彼は台湾やフィリピンのミュージシャンと共演したほか、台湾にやってきたそのほかの外国人とも演奏しています。例えば、台北フィルハーモニーオーケストラのトロンボーン奏者John Van Deursenです。Johnは1990年代に多くの大規模なジャズライブを行いました。Met Franciscoと黄瑞豐のほかにも、台湾に来ていた各国の優秀なミュージシャン、異なった世代のミュージシャンも戦列に加わっています。例えば日本の金木義則や増田正治、アメリカのトランぺッターDanny Deyshe、またそのころまだ学生だった筆者(楊曉恩)や魏廣晧らが、国際的な音楽のコラボレーションをしていました。
ジャズの演奏の重要な要素にアドリブがあります。ジャムセッションも、その当時重要なジャズの舞台の一つになりました。Romy Yamsuan とピアニストの奥さん葉燕慧が天母に開いた「菲島屋」は、毎週日曜にジャムセッションを行い、サックス奏者董舜文が毎回彼の師であるMet Franciscoと一緒に演奏しました。1974年に設立された台北藍調(Blue Note)は、師大路に店を開き、多くのジャズミュージシャンがやってきました。サックス奏者Ben Rigor、ピアニスト張楟、變形蟲爵士樂團(Jazz Meta Band)、日本人ピアニスト烏野薰らです。金山南路にオープンしたBrownSugarでは、ピアニスト吳書齊やベーシスト Ronnie Rampasらがハウスバンドとして活躍していました。
21 世紀:体制を整え、新しい世代の台湾ジャズミュージシャンを育てる
2000年前後、台湾で演奏経験を積んだ若いジャズミュージシャンが欧米に留学し始めました。そして彼らが台湾に戻って後、非常に多様な音楽のキャリアを展開しています。バンドの結成、ライブの開催、ジャズのアルバムの作成などです。例えば彭郁雯は絲竹空爵士樂團を結成し、ジャズと中国伝統楽器との融合を図り、独創的な音楽を創っています。学校での教育とジャズビッグバンドの育成に努めているミュージシャンもいます。例えば謝啟彬と張凱雅の主催するTISJA、魏廣皓が企画運営する兩廳院爵士夏令營(國家音樂廳サマージャズキャンプ)などです。こうした努力が実って、多くのジャズに関心を持つ若者が、ライブを聴きに来るようになり、ジャズを学び始めました。ある者は外国でジャズを学びそれを台湾に持ち帰り発展させ、ある者は台湾にとどまってジャズの研鑽を続けました。いまでは、これらのミュージシャンが台湾のジャズの中核となっており、精力的にアルバムを発表し、様々な音楽賞を受賞しています。
台湾でのジャズ教育は、私的な学習の場だけではなく、大学においても行われています。例えば輔仁大學音楽学科、東華大學音楽学科、台南藝術大學応用音楽学科、嘉義大學音楽学科などがジャズのクラスを持っています。
現在では、さらに多くの若い台湾のジャズミュージシャンが、国外で優秀な成績を修め、台湾のジャズシーンの新たな刺激となっています。これは、以前は全く想像もできなかったことです。しかしこの様な成果も、前人の努力と蓄積がなかったら実現しなかったでしょう。
ジャズミュージシャンの道は、王道を歩みトップを目指していれば、それでいいわけではありません。常に多くのミュージシャンと共演し、お互いの創造力を刺激し、音楽的な糧を蓄積すること。台湾というこの土地を縁にして音楽に新たな命を吹き込む、そして台湾独自のジャズ文化を創り出していくこと。そして、それを受け継ぎながらも新しいものにしていくことが大切です。
感想
僕が台湾に語学留学に来ていた1990年頃は、校園民歌の全盛期でした。大学の近くのカフェレストランでは、どこでもギター一本で歌って演奏する民歌の歌手がいて、毎日の様にライブをやっていました。これが若者が自らを音楽で表現する先駆けだったのですね。
しかし、その時代ネットの情報もありませんでしたし、街中でここに説明されている様なジャズの活動を知ることはありませんでした。
留学を終えてから日本に戻り、日本の設計事務所で勤めながら、台湾には幾度となく来ています。しかし、その際も台北でジャズの情報を目にすることもありませんでした。
台北のジャズの情報を知ったのは、2018年4月に台北での建築コンサルタントの仕事が始まり、あらためて台北に住むようになってからです。
そして、この文章の作者、楊曉恩老師を始め、その他多くの台湾のジャズミュージシャンを知るようになりました。
この文章を読んで、この間台湾ではジャズに関してこの様なことが起こっていたのだと、詳しく知ることができました。100年に渡り、様々な時代の断絶に遭遇しながら、その度に接木に枝をつなぐように、ジャズの息吹を引き継いできた歴史があったのですね。
日本の敗戦、国民党による戒厳令、米中断交という激変する時代の環境の中で、ミュージシャン達がどの様に生きてきたのか。そしてその歴史的な蓄積の上に現代の台湾のジャズがあるのだということがよく分かりました。
"その一"の記事はこちらになります。
"そのニ"の記事はこちらになります。
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