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【明清交代人物録】洪承疇(その三)

前回明朝の組織上の問題をマクロにとらえましたが、今回それが農民の大規模反乱につながっていく事情を説明します。


膨大な人数の皇族達

明朝では、皇帝に権力を集中させるために、皇帝になった人物の兄弟を藩王として中国各地に送っています。そして、そこで政治的実権を持たない皇族として暮らさせ、皇帝との権力闘争が起こらない様にしたのだと考えられています。
明朝の第3代皇帝、永楽帝は北京の藩王から2代皇帝建文帝を追い落とし帝位につきます。この様なことがシステム的に起こらない様な、制度的な工夫をしたのでしょう。

しかし、この制度により、次第に皇族が増えてゆき、その財政的負担が重くのしかかってくるようになります。建国当時49人だった藩王とその家族の数は、明代末期には28,924人と激増しています。これが全て王朝に寄生するような非生産階級な訳です。

現在の日本でも皇族の数とその範囲を限定して、国家で養う人数はある程度制限するべきだという議論があると思います。戦前の華族は、敗戦後その特権的立場を失っています。
それが、生産性の高くない封建時代にこれだけの人数になっていると、その経済的・人事的負担は相当のものだったでしょう。そして、この様な王族を重しの様に抱えていくことは、それだけで王朝の巨大な負担になっていきます。

土地の収奪

これらの王族たちの経済的な源泉は土地にありました。藩王達は、自らの経済的基盤を充実させるために農民の私有地を自らのものとして収奪していきます。この面積も、建国当時と明朝の末期では大きく異なります。農民は次第に自らの土地を失い小作農になっていき、富が王族に集まるという傾向が進んでいきます。

また、土地が王族のものになると、ここから税を徴収することができなくなります。彼らは特権階級なので税の負担を免除されているのです。
すると、地方で一定の税の負担が必要になるといった場合、一般農民の負担がだんだん大きくなっていきます。

この様にして、明朝は時代を経るに従って、王族の膨張、農民からの土地の収奪というサイクルが進んでいき、最終的にはそれが限度を超えてしまった。大きくはその様なことなのだろうと考えています。

大規模な土木工事

この内向きの明朝は、王朝がこの様な危機的な状況にあるにもかかわらず、大規模な土木工事を進めます。萬曆帝の陵墓は、現在の北京観光の一つの目玉になっている地下宮殿ですが、まさにこの様な状況の中で建設が進められています。
この工事も、農民の労働力を搾取することで実現させていくので、農民の負担は大きなものになります。

対外戦争

これらの国内問題に加え、明朝末期には外国との戦争も引き続いて起こっています。この戦争も明朝の国費を大きく費やすことになります。

萬曆の三大征と呼ばれる事件があります。一つは寧夏で起こったモンゴル人の反乱、もう一つは貴州で起こった楊応龍の乱。この二つは国内における反乱で、明朝は自らの力で何とかこの内乱を収めます。

一方、豊臣秀吉が朝鮮に対して起こした侵略戦争、文禄・慶長の役。この戦争の際、明朝は李氏朝鮮の宗主国として、朝鮮への援助を行っています。それぞれ2年ほどの戦いですが、大きな人的・物的被害を被ったにも関わらず、何ら戦利品は得られないという戦争でした。
この戦争での支出が国庫を圧迫しているということが言われていますが。これも、国が正常な状態であったなら、適切に対応できていたのだろうと思います。しかし、 国の経済を圧迫する様々な内的要因が重なっている中で、この対外戦争戦争が起こった。そのため、国の経済に対して影響が大きくなったのでしょう。

初期の文官としての業務

明朝がこの様な状態になっている中、洪承疇は科挙に合格し、官僚として仕事を始めることになります。初任官は萬曆44年,職務は刑部江西清吏司主事。その後この刑部での職務を6年歴任していきます。これは北京中央における役職の様です。
天啓2年,洪承疇は兩浙提學道僉事抜擢され、地方の仕事に就くことになります。2年後、兩浙宣布政事左參議に、さらにその3年後陝西督糧道參議となっています。

洪承疇のこの様なキャリアは、特段飛び抜けたものではなく、一般的な官僚がたどる出世の道だったと考えられます。刑部というのは、裁判所の裁判官の助手の様なものでしょうか、国の中央においてはその様な業務を行っています。
浙江省での業務は地方政府の、下級官吏といったところでしょうか。陝西に移ってからは糧食を管理する役職についています。

後に洪承疇はその軍事的能力を認められて、大軍を率いていくことになりますが、そのキャリアの出発点はとても地味な仕事です。しかし、この様な仕事をしていたことで、一般の民の生活状況には明るくなっていた。その様にも考えられます。
洪承疇のことを表した碑には、次の様に評した文章が書かれているそうです。"任刑部主事,公正執法"刑部での業務は、裁きがとても公正であった。この様な評価を得ている人物が洪承疇です。

基本的にその様な態度で、洪承疇は真摯に業務に臨んできたわけですが、派遣された陝西で彼は農民反乱に巻き込まれてしまいます。そこで彼は軍事的才能を発揮することで、一躍明朝の中で活躍するチャンスを得ます。

ここで一つよく分かっていないことがあります。それは、文官である洪承疇が大軍を率いる将軍として活躍する様になるということです。
中国の王朝はシビリアンコントロール、文官による政治指導体制が徹底しており、軍を直接率いる武官とは、政府の中での在り方が異なっているはずなのです。そのため文官としてキャリアを積んできた洪承疇がまるで軍人の様な仕事をし始める。これは一体どういうことなのか、まだよく分かっていません。乱世の世の中、緊急時には文官武官に関わらずリーダーになる能力のある人間が、リーダーになる。その様なことなのか、あるいは文官が軍の指揮をする、そういうシステムが整っているのか。

いずれにしろ、洪承疇はこの様に文官としてのキャリアを堅実に11年間重ねた後、軍事的能力を持って頭角を表していくことになります。時は崇禎2年、1629年になっていました。

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