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記憶の旅日記8 アウトバーン

26歳で会社を作った時、僕は学生だった。クリスチャンという東ドイツ出身のフラットメイトと2人で会社を作り、彼がマネージメント、僕がクリエーションを担当することになった。といっても最初はブランドもなかったし、ましてや製品もなかった。お金もお客さんも無いし、あったのはもう無くなる寸前の遠く離れた日本の伝統工芸だけだった。それからしばらくして名刺を作り自分の名刺に「Creative Director」という肩書きを書いた。その日から僕はクリエーティブ・ディレクターになった。クリスチャンは「マネージング・ディレクター」だった。このディレクター2人は学生寮のキッチンで毎晩ビールを飲みながら、色々な将来の話をした。秋になり、クリスチャンが卒業することになり「どのようにして日本の伝統的工芸を欧州のラグジュアリーマーケットで販売できるか」ということを卒業論文にした。それがベースで今の会社が出来上がっている。僕は学生だったのでクリスチャンの名義で会社を登記した。

以前照明を父親が作っていたので、まずそれを商品にしてみた。それからストールもいくつか作った。カタログも作った。店舗を調べてカタログを送った。色々とメールを書いたり、電話をかけたりした。ただほとんどのお店から返事はなかった。これは本当にまずいぞということになり、その出来上がった商品をトランクに入れてお店に営業に行くことになった。クリスチャンの弟が持っていた古い赤いフォルクスワーゲンを譲り受け、それで営業に行った。ぼろぼろだったのでしょっちゅう止まり、最後は錆びて床に穴が空いて廃車になった。それから何台か車を変えたが、どれもよく故障した。高速道路で止まり、パンクし、煙をあげた。最初の5年は家にほとんどいなかったと思う。ほぼ毎週のようにオンボロ車でヨーロッパ中を駆け回った。

数年前に断煙したが、その前はヘビースモーカーだったクリスチャンは、車の中でもよくタバコを吸った。僕は免許証を持っていないので、助手席で紙タバコを巻きクリスチャンに渡すのが車内の仕事だった。その他の時間は大方寝て、起きると景色を眺め、ドローイングをして、本を読んだ。夕方になり、夜になると手元が見えなくなるのでカバンにスケッチブックをしまい、また寝た。ドイツにはアウトバーンと呼ばれる高速道路が走っている。ドイツの道はよく整備されていて道がフラットで、他の国に入った途端に揺れる。アウトバーンで道なりに並ぶオレンジ色の街路灯が後ろに飛んでいく。雨で前が見えないぐらいにひどい天気の時もあった。風力発電の風車が遠くの丘で朝日に照らされて優雅に回っていた。畑が広がり、金色のムギがなっていた。牛の群れが日向ぼっこをして寝そべっていた。青い標識看板に白抜きされた矢印が色々な方向を指していた。電車や歩道など様々な形や大きさの橋が見えて、頭上に来て、後ろに去っていった。

高速道路脇のレストランにもよく行った。大体どこも美味しくはなかったし、そして高かった。物価の高いスイスでは一番安いメニューを見たらパスタと書いてあったのでそれを頼んだら出てきたのは茹でたパスタと粉チーズだけで、トマトソースは別料金のトッピングだとウエイターが言った。泊まりの時にはトラック運転手や建設や収穫などに関わる人たちが泊まるホテルによく泊まった。最初の方は営業に行っても誰もオーダーしてくれなかった。6時間かけてベルリンに行き、スカーフ10枚のオーダーをもらって、帰りの車で二人で大喜びして帰ってきた。「車が故障して燃えたら、このオーダーノートを持って飛び出ろ」とクリスチャンに言われて鞄を抱きしめていた。

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