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柳田國男の故郷を訪ねた


そろそろ柳田國男を勉強しなくてはならないと思っている。農政学と民俗学は密接に結びついている。そしてそれは、国語、社会の認識へとつながっている。

彼の生家のある播但線で福崎という町の柳田國男記念館を訪ねた。記念館の西隣には、柳田國男が「日本一小さい家」と表現し、民俗学への志の源となったといわれる生家があった。


記念館は、リニューアルするにあたって難解な民俗学を優しく解説するためにずいぶん苦労されたようだ。そこかしこに妖怪のモニュメントがある。妖怪という切り口は子供まで理解できる。そういう意味では 小泉八雲と水木しげるの重要性は日本人を知る上でバカにできないと再認識した。何でもかんでもエンタメにしてしまう風潮に個人的にはあまり良いとは思っていないと書き添えておく。

この記念館では、柳田國男の正家、松岡家兄弟がかなり優秀であること、軍人の弟が民俗学を國男に勧めたこと、40代で役人をやめて学問の道に入ったこと、とにかくたくさん著作があること、民俗学の研究範囲は広大であること、国語や社会科の教科書をつくったことなど新しい知見を得た。


さて、國男は1875年に医者の六男として生まれた。生まれた場所は街道の交わる場所であり小さな家だった。非凡な記憶力を持ち、11歳のときに旧家に預けられ全ての蔵書を読破した。その後利根川べりに住み、貧困や間引きに衝撃を受ける。今の開成高校、尋常中学共立学校から郁文館中学、第一高等学校を経て
東京帝国大学を卒業し卒業後、明治33年(1900年)に農商務省に入り、主に東北地方の農村の実態を調査・研究するようになる。田山花袋、国木田独歩と『抒情詩』を出版、柳田家に養子に入り、恋と文学を諦め、官界に進んだ。
自然主義に絶望した。
明治42年『後狩詞記(のちのかりことばのき』
刊行、日本の民俗学の出発点のようにいわれている。スピリチュアリズムの影響で『遠野物語』を執筆する。昭和初期は日本民俗学の確立の時代であった。
妖怪を「零落した神霊」と捉えました。 かつては人間に良き恩恵をもたらした神が、時代が下るにつれ人々の信仰心が失われた結果「妖怪」として立ち現れた。


宙吊りの天狗が登場する

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