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【エッセイ】大震災と詩と私


大震災と詩と私

磯崎寛也

東日本大震災が発生した2011年3月、私は水戸市に住み、福島県いわき市でも会社を経営していました。地震によって起こった東京電力福島第一原子力発電所の事故が深刻化し、放射線被曝を避けるために、多くの社員が、いわき市からいなくなりました。沖縄に居を移した社員もいます。羽田空港から電話があり「家族全員で沖縄に引っ越します。社長、お世話になりました」と告げられました。水戸市内も、放射線被曝による健康被害の恐れがあったため、妻と子供を飛行機で関西に移動させました。私は、経営者の責任として、福島県に残った社員のために何かできることはないかと考え、自ら生活物資を届けることにしました。水、菓子パン、生理用品などが喜ばれました。大きな余震の最中も、自分で運転していわき市に向かいました。米国は、原発の半径80キロ以内にいる米国人に避難するよう勧告しました。常磐道のパーキングに、普段見ることのない軍用車両が所狭しと並んでいるのを、今でもありありと思い出します。私は上官を失った前線の兵士のような気持ちでした。「世界の終わり」は目の前の現実でした。毎日、できる限りの情報を集め、状況を分析し、判断し、行動しました。

私は震災後すぐに、私の住む水戸市や、子供たちの通う学校に対し、様々な提案をしました。当時長男が通っていた中学校校長の小泉晋哉氏は、PTA役員だった私の提案を真摯に受け止めてくださいました。それが校長会を通じ、地域の他の学校へ様々な影響を与えたと、後になって知りました。小泉氏とは今でも親しくしており、私の1冊目の詩集『ソラリスの襞』の出版に際し、多大なご協力をいただきました。小泉氏は東京藝術大学を卒業された美術研究家で、若い頃、いわき市立美術館の立ち上げの学芸員をつとめたことから、福島県の原子力発電に関して、高い知見をお持ちでした。また驚くことに、私の第一詩集『ソラリスの襞』の挿絵をお願いした美術家伊藤公象氏の美術館開館の時のインスタレーションを、担当されていたのです。現在のお仕事は福島県いわき市の南隣の茨城県北茨城市にある茨城県天心記念五浦美術館の館長です。

震災から5年経過した2016年5月、廃墟化した水戸市の中心市街地の一角で、地元の若いアーティストたちに声をかけ、アート展示を行いました。「飛蚊的黙示録」というタイトルのこの展覧会は、東京五輪開催決定で浮かれていた当時の世相に対する、私たちなりの意思表明でした。「飛蚊症」は眼球内部の硝子体の濁りによって、視界に蚊のような浮遊物の影が見える症状です。それを震災後の私たちの不安に喩え、そこから未来を読み解こうという表現の試みでした。16年の9月に2回目、17年の5月に3回目の展覧会を行いましたが、その後、私は身体が衰弱し、松葉杖をつかなければ歩けなくなり、4回目を開催することを断念しました。11月にとうとう動けなくなり、いくつかの病院を転々とした結果、日赤病院のMRI検査で脊椎が破壊されていることがわかり、緊急入院し長期の入院治療を余儀なくされました。骨髄腫の可能性もあると言われ、一度は死を覚悟しました。「福島に頻繁に通っていたことが災いしたかもしれない」と思いました。病名は「化膿性脊椎炎」と診断されましたが、感染した細菌を同定する医療技術がないため「適切な治療かどうか確信は持てない」と、担当医に言われました。将来の歩行困難や感覚麻痺の可能性も指摘されました。幸い3ヶ月で退院でき、半年のリハビリで、なんとか歩けるようになりました。その後、体力を失った私は、会社の立て直し以外に二つのことにテーマを絞りました。一つは、私の専門分野であるアートで、地域に貢献すること、もう一つが詩を書くことです。その年の年末に、地域のアーティストの為に、常時アート展示ができる場所を駅前に確保しARTS ISOZAKIと命名し、展覧会を3年間続けました。また、そこを拠点に、作品集の出版やパブリックアートの制作、アーティスト・イン・レジデンスなどを実施しました。詩に関しては、詩作そのものが大震災で失われた命の慰霊につながると、考えていました。このような経緯で、2022年から3年連続で出版した3冊の詩集は、私の中で特別な意味を持ちます。今もなお鎮魂の詩を書き続けています。時々、詩を書くことが巡礼のように思えることがあります。それが3冊目の詩集『ピルグリム』のタイトルの理由です。昨年の夏は、アーティストたちのご縁に導かれ、四国遍路を歩き、実際の巡礼を体感することができました。猛暑と台風により多くの困難と苦痛を伴いましたが、不思議に恐怖や不安はありませんでした。歩いている間ずっと、誰かが横にいるような気持ちを経験しました。私は、覚えたての真言(マントラ)を唱え、その幻の人に語りかけ、詩を書き続けました。

詩作を生活の中心に置くと、通常の生活では起こり得ない様々な機会に恵まれます。ある種のセレンディピティと言っても良いかもしれません。昨年5月「日本現代詩人会ゼミナールinぐんま」で木場とし子氏と出逢い、こうして詩誌『山脈』の同人として、思いを残せたこともその一つです。また、昨年2月の「日本詩人クラブ大阪例会」で京都大学の大学院の教授でもある詩人、細見和之氏と出会い、彼が校長をつとめる大阪文学学校に入学し、一から文学を学び直すことにしました。しかも、そこで出会った若い詩人たちと、この度、詩誌『VOY』を立ち上げることになりました。その創刊号に細見氏からこんなメッセージが届きました。「私の詩の定義は、災厄のただ中で書かれ得るもの、である。詩はワルシャワゲットーでも書かれたように、ウクライナで、ロシアで、ガザで、イスラエルで、いまこそ書かれているに違いないのだ。インクがなければ、血でもって書く、それが詩だ。紙がなければ、壁に爪で掘る、それが詩だ」(詩誌『VOY』0号)今日も私は細見氏からいただいたこの言葉を胸に詩作を続けています。   

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