シン・感覚派 私達は21世紀の川端康成になれるか
シン・感覚派 私達は21世紀の川端康成になれるか
シン・感覚派は、1924年から1世紀を経て、まるで先祖返りのように、蘇った日本文学の幽霊である。モダンとポストモダンを、治安維持法制定から太平洋戦争の終結の20年で分断された日本文学は、その正当な血脈を取り戻すために、三島ではなく川端に戻らなくてはならないと思う。
文藝に革命思想は必要ない。そこに革命思想に導くヒントがあったとしても、文藝は答えを出してはならない。革命の命は短い。文藝は千年単位の責任を考える。エロティシズムも、ロマンティシズムも、シンボリズムも、政治とは関係がない。詩人が革命に参加することはあっても、詩が革命を起こしてはならない。
新感覚派は、1920年代の日本文学のトレンドであった。それが100年後蘇るのは、川端康成のおかげである。彼が自死を選んだ理由が今となってはわかる。
三島の思想や言葉は強い。しかし、それは日本的文藝ではない。
新感覚派は、1924年に、川端康成がたちあげた同人誌『文藝時代』を母胎とした新進作家を指し、横光利一、川端康成、岸田國士、稲垣足穂あたりが名前を知られているが、本命は川端、横光となろう。
川端康成はかなり早い時期から、日本人にしか書けない、ある種のポストモダンを実践していて、モダニズムの日本バージョンとしての新感覚ではなく、世界のモダニズムを牽引する気概があったに違いない。そこには、日本の文藝を、国家主義に向かわせないための煩悶があったはずだ。
今、日本では文学の王様は明らかに【小説】だろう。それは、本来詩人と呼ばれるべき人たちが、小説家になったことによって生じた。モダニズムに対する誤解、抑圧によって、ルサンチマンが自家撞着のいずれかを選ぶことが迫られ、本来最も面白いはずの、独創的イメージによる意識の更新は、流行のキャッチアップによる編集の仕事になってしまった。
私たちが、「シン・感覚」と幾分自嘲的に立場を説明するのは、当然のことながら、シン・ゴジラ シン・エヴァンゲリオンなどの流行り言葉を意識している。そして、そこには、新しいテクノロジーを使った焼き直し、くらいの意味しかなく、まさにポストモダンの執着地点である。
モダニズムがそもそも日本的なアイデアであり、ポストモダンやビートニクは、結果、神仏習合、和魂洋才のことではないかと私たちは薄々知りながらも、そんな説明をしても誰も面白いとは思わないことを、確信している。
それより、1925年に治安維持法が施行された後に、世界戦争の準備のために全ての芸術表現が規制され、日本のモダニズムが1925年で終わり、20年間 冬眠をしていたと考えたほうが気が楽である。
戦後文学が、戦争責任を、一手ににない、倫理的な反芻を70年繰り返すことによって、文学は、まるで永遠に続くお葬式のようになってしまった。私たちはあえて、この20年間を見ないことで、1925年までの文学の楽しさを取り戻そうとしている。文学の本当の価値は、読む楽しさ、書く楽しさにあるのであって、身体のリズムを文藝に響かせよう。
世界大戦後の好景気にのり、1915年から10年特に日本のモダニズムは華やかだった。ダダやドイツ表現主義などを一気に吸収した新感覚派は、日本における前衛表現そのものになった。そして新感覚派の小説は、明らかに散文詩、あるいは詩的散文なのである。
私たちは新しい詩の表現を探す中で、小説の楽しさを学び直し、ポエジーをストーリーとリズムに載せることで、
読者の好奇心を掻き立てる香りに仕上げていこう。それは、イェイツやエズラ・パウンドが影響を受けた、日本の古典に学ぶことでもあり、インターネットと翻訳技術、ハイパーテキストによって解決した言語の距離は世界同時進行の【シン・感覚派】を生み出す。
新しいメタファーやアレゴリーに変わる、量子的な概念エンタングルやコヒーレントは、日本の俳句や薪能など、日本の古典にはすでに存在していて、なかんずく、日本語のかな表記の可能性は、まるでタンパク質の構造のようである。世界の全ては流れであり、波であるという科学的事実を太古から感知していたとしか思えない。それはおそらく、霊感を捨てていなかったから残ったのだと思う。
昨今、現代詩は難しいと敬遠される。詩人は貧しく老人のイメージがつきまとう。新しい詩人は生まれにくい。詩人を世の中が必要としていないからだろうか。そんなはずはない。ポエジーはそもそも言葉にあり伝えなくてはならない。
新しい詩人は シン感覚によって、イメージを革命する
「私の眼球とあなたの乳房、夏の太陽は同じである。彼らの肛門は、繋がっている。ピラミッドに溶けている。(「太陽肛門の海辺」)
全感覚の、共通を、バラバラにして、再構築することは、日本人にとって容易いと思われる。私から言わせれば、芥川も川端は、偉大な詩人である。日本文学を現代詩を軸に整理し直し、現在位置とモダニズムを繋ぎ直し、取り戻し、再整理しよう。そこから文藝にエネルギーを取り戻せるはずである。