桶狭間の戦いの考察 1
桶狭間の戦い。
戦国時代が好きな人なら誰もが知っている、というよりも歴史を勉強する上で必ず通る戦いです。
今川義元と織田信長の軍勢が戦闘になり、今川義元が討ち取られた。
これが歴史の事実です。
そして今川義元といえば、どんなイメージでしょう。
油断して桶狭間で負けた人。
白化粧にお歯黒の貴族かぶれ武将。
おそらく30代以降の人だと、こんな言葉が頭に浮かぶのではないだろうか。
そんな今川義元ですが、なかなか強かな武将であったことは近年の研究で明らかになっています。
ではなぜ、そんな今川義元が負けたのでしょう?
歴史は勝った方が作るので、諸説様々入り乱れますが、なぜ今川が負けてしまったのか、という視点から桶狭間の戦いを見てみたいと思います。
まずは今川家とは、どういうルーツがあるかをご説明いたします。
■今川家のルーツ
室町幕府の名家、今川家。
家紋の「足利二つ引き」から分かるとおり、足利一門の名家です。
その先祖は室町幕府初代将軍足利尊氏から数えて5代前の当主足利義氏まで遡ります。
義氏の曾祖父は八幡太郎義家。
つまり清和源氏直系という折り紙付きの血統です。
太平記で足利家が源氏の棟梁と呼ばれる由縁がここにあります。
義氏の母は北条時政の娘で、義氏以降も足利氏の当主は代々北条氏の娘または近しい縁者から正妻を迎えています。北条氏としても、足利氏の家格を無碍に扱うことができないと考えていたのでしょう。
幕府の要職には就かなかったものの、和田合戦や承久の乱といった鎌倉時代の重要な局面の戦いで手柄をたてて、三河守護の地位を拝命します。
当時、鎌倉と京都とつなぐ東海道の要所である三河を任されたわけですから、鎌倉幕府(北条氏)からも信頼・厚遇されていたことが分かります。
足利氏も正妻に男子がある場合はその子に家督を継がせていましたから、鎌倉とはかなり近しい関係を築いていました。
しかし、その義氏には側室の子供である長男の足利長氏がいました。
義氏には北条氏から迎えた正妻に男子がいたため、長氏が足利の家督を継ぐことはできません。
そんな長氏を不憫に思ったのか、義氏は守護国である三河国吉良荘の地頭職を長氏に務めさせることにします。
これ以降、長氏の一族は「吉良」の姓を名乗るようになります。
そう、忠臣蔵で有名な吉良上野介のご先祖様です。
その長氏の次男国氏が、三河国幡豆郡今川荘(現在の愛知県西尾市今川町)の地頭になったことから、「今川」と名乗ったのが今川家始まりです。
あれ、だとしたら「吉良」の方が「今川」より家格が上じゃね?
そうなんです。
今川はあくまで吉良の傍流なので、家格が一枚劣るんです。
「足利宗家が絶えたら吉良が継ぎ、吉良が絶えたら今川が継ぐ」と、吉良氏の方が今川氏よりも明確に上の家格であると示されています。
徳川幕府では「吉良氏」は元禄事件まで高家筆頭なんて言われていたのは、三河の名族の上に彼らがまごうことなき清和源氏の血統だったからです。
でも、戦国時代に「吉良」っていたっけ?
いや、いたんですよ、三河国に。
いたんですけど、吉良氏は室町幕府の前半で「分裂→内部抗争→勢力衰退」という見事な三連コンボをかましてしまい戦国の頃にはすっかり弱体化。これは尊氏と直義の引き起こした「観応の擾乱」という壮大な兄弟喧嘩が原因なんですが。
吉良氏が内部抗争を繰り返している間にも、今川氏は駿河国の守護に任じられ、着々とその勢力を強めていきました。
まあ、今川氏も当主が討ち死するという最大級のアクシデントに見舞われるんですが。(義元以前にも実はあるんですよね)
ちなみにこの時の今川氏は「当主討ち死→継承者が幼君→領国で反乱発生」という、こちらも綺麗な三連コンボに見舞われています。
血は争えない、というか、この時代はだいたいこういう流れが多い。
その今川氏の大ピンチを救ったのが伊勢宗瑞(のちの北条早雲)なわけなんですが、それはまた別のお話。
そんなこんなでピンチを乗り切った今川氏は、今川氏親という名君の登場もあり、一層力を増していきます。
吉良氏はというと、そんな状況でも身内で内部分裂と抗争を繰り返していました。途中、松平清康(家康の祖父)と組んだり、尾張・遠江守護の斯波氏と組んだりして今川にちょっかいを出していくわけですが、氏親の統治の元、盤石となった今川氏の勢力の前に屈するわけです。
そんなこんなで、駿河で一大勢力となった今川氏は、名君の登場もあり最盛期へと突き進んでいきます。
これが義元登場前の今川氏のお話。
長くなりそうなのでここで一旦区切ります。
次回は尾張のお話を。でもまだ織田は出てこない予定。
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