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甘える力

自分の「人間力」に自信をもってる人ほどやっかいな人はいません。

激しい人と言いますか、勢いのある人と言いますか、短気な人と言いますか、そういうタイプの人たちには割とそういう人を見かけません。こうした人たちは多くの場合、自分がエゴイスティックに動いていることを自覚しています。

やっかいなのは、自分が自分を犠牲にしながら他人のために尽くしていると考えているタイプの人たちです。或いは、優しさや思いやり、協力といったことがすべてに優先されると考えているタイプの人たちです。彼ら彼女らは自分だけでなく、周りの人たちにも自己犠牲を強いるようなやっかいな同調圧力を醸していることに気づきません。

「悪人がいかに害悪を及ぼすとしても、善人の及ぼす害悪にまさる害悪はない」とはニーチェの言葉ですが、私はこの言葉に深く頷きます(『ツァラトゥストラかく語りき』)。偽善的な笑顔で「僕はこう思うなあ……」などと語りかけ、同調圧力で押しつけてこられるくらいなら、「これだけは守ってくれないと困る」「これを蔑ろにしたら許さない」とはっきり申告された方がわかりやすくてすっきりします。

もちろん、偽善がすべて悪いと言うほど私も子どもではありませんから、世の中に偽善が必要な場面がたくさんあることを私も知っています。優しい言葉やつくり笑顔の妥協は、それがたとえ偽善であったとしても人の心を安定させることというのが確かにあります。しかし、それは日常のなかにある種の厳しさがあり、基本的には張り詰めた空気のなかで過ごしているからこそ時宜を得た偽善が人を救うのであって、常に偽善に包まれた世界は窮屈すぎて人を萎縮させます。いいものはいい、ダメなものはダメ、それでも失敗してしまった場合にはその人を責めない、追い込まない、それが多くの人々にとって生きやすい世界です。

自分に自分の自然体を許す、他人に他人の自然体を許す、そしてあなたの自然体を私は許すから私の自然体もどうか受け入れてください、おそらく人間関係のキモはこういうところにあります。それ以外の人間関係はすべてどこかに無理があり、いつしかほころびが出て、最後に崩壊します。

恋愛に「この人を好きなっちゃいけないと思ったら恋の始まり、この人を好きでい続けなければならないと思ったら恋の終わり。」という言葉がありますが、人の好き嫌いなどというものは自然発生的に湧いてくるものであって、意志の力でどうにかできるようなものではありません。

私は子どもたちも同僚もほとんど嫌うということのない人間ですが、例えば私が学年主任になったとき、まず行うことは徹底的に学年所属の若者を指導することです。授業を1時間参観して細かな指導メモを取って渡す、数週間後にまた参観する。前回からの成長点を認め、克服されていない課題を指摘する。これを数ヶ月間続けます。たいていの場合、若い教師たちはみるみる私の指導を受けて入れて成長していきますから、彼らも次第に成長実感を抱いていきます。何より授業の機能度が目に見えて上がるとともに、私の指摘もだんだん減っていきますから、彼らも私の言うことを素直に聞くようになっていきます。そして、数ヶ月が経つと、もう私が授業を参観しなくても良い状態になり、あとは自分で成長していくしかないという段階にまで至ります。こういう状態になった頃には、若手は私を信頼するようになり、私もその若手を愛するようになります。それも自然にそうなっていきます。 学級経営も同じです。自分の学年に初めて担任をもつという若手がいる場合、私は毎日毎日、細かすぎるくらいに打ち合わせをし、その日の出来事をチェックします。その若手のためにというよりも、自分の学年運営がくずれてしまっては、私自身が学年主任としての責任を果たせないからです。しかし、これも1年を過ぎた頃には、私が細かく指摘する必要もなくなっていきます。そしてその頃には、私はやはり自然にその若者を愛しているのです。 私の言っていることがおわかりでしょうか。これが自分の学級を愛するのと同じ構造であることに、お気付きでしょうか。意志の力で愛そうとすることなど無理なのです。自然を待つのです。私はこのことを夏目漱石から学びました。

口はばったく、しかも照れもあるのでなかなか口には出しませんが、子どもたちが相手でも同僚が相手でも、リーダーに必要な資質はその人たちを愛することです。弱いところがあっても、できないことがあっても、不得意なことがあっても、それも含めて愛することです。それも自然に愛することです。それができない人間は人のうえに立ってはいけないのです。

偽善が偽善であるのは、愛していないのに愛している振りしているからです。だから「偽」なのです。答えは簡単です。「偽善」から「偽」を取ってしまえば良いのです。そういう状態になろうと無理するのではなく、自然にそうなるのを待てば良いのです。そのためには、あくまで仕事のうえで助けられる部分を助け続ければ良いのです。それ以外に道はありません。

最後に若い人たちへ。

中堅・ベテランから見て、一番困るのは、どうしようもなくなって八方塞がりになってからHELPを出されることです。八方塞がりになってからではどんなに優秀な教師も、どんなに優秀な管理職もなかなかその状態を修復できません。

私はよく、研究会のQ&Aのコーナーで「若手教師がまず身につけなければならないのはどんな力ですか?」と訊かれます。私は間髪を入れずに答えます。「それはHELPを出す力だよ」と。責任感を感じ過ぎず、意地を張らず、周りに迷惑をかけたくないなどと思わず、何か困ったなと感じたら即座にHELPを出す、そんな「甘える力」です。誤解を怖れずに言えば、日本的な「人間力」とは、「甘え上手になること」なのではないでしょうか。

若い頃に周りに甘えることのできた人は、中堅・ベテランになったとき、必ず周りを甘えさせる人になっていきます。甘えて良いのです。遠慮せずにHELPを出して良いのです。わからないことをわからないままにただ一所懸命に取り組んでみる。そこに何が生まれるというのでしょう。わからないことはまずわかることが先決なのです。わからない人にはまずわからせるために指導しなければならないのです。簡単な原理に過ぎません。

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