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叱るとはメタ認知させること

いろいろな原稿で「怒鳴る教師になってはいけない」と書いている。いろいろなセミナーで同様に話してもいる。賛否両論があるけれど、僕はこれを基本方針にするのが良いと思っている。

反論の最たる論理は「教師は怒鳴らなくちゃならないときもある」というものだ。そんなことが起こったら怒鳴ればいいだけだ。しかし、それが必要だと思って怒鳴ったときに、「うん。今回はこれしか手立てがなかった。仕方なかった。」で終わるのと、「他に手立てはなかったか。少し考えてみよう。」と思うのと、どちらが教師として成長できるか。言うまでもないだろう。前者は思考停止を意味する。教師が思考停止してしまったらおしまいだ。

怒鳴る教師になってはいけない─これを基本姿勢として子どもに接すれば、教師は子どもと接するうえで考えざるを得なくなる。説教するときにも説諭するときにも説得するときにも。怒鳴って子どもを萎縮させた時点で、もう勝負はついてしまう。勝負がついてしまったら、教師は双方向のやりとりをやめてしまい、自分の言い分だけを話し始める。僕はこれを思考停止状態と呼んでいるだけだ。

僕に言わせれば、怒鳴ることの肯定は教師の成長放棄である。それはひと昔前に体罰の肯定が成長放棄であったのと同じ構図である。

僕は子どもたちにほとんど自分の考えを語らない。生徒指導においてさえ、子どもの心の在り方に踏み込まない。こういう生き方が良いとか、こう考えるべきだとか、そうしたことをほとんど言わない。

代わりに何をするのかと言えば、徹底的に起こった事実を確認する。暴力事件であろうといじめであろうと触法行為(喫煙・飲酒・万引など)であろうと、僕は長い時間をかけて徹底的に事実を確認する。

それはいつの出来事か。それはどこで起こったのか。周りにいたのは誰なのか。どちらが先に手を出したのか。何と言われたときにカッとしたのか。それに対して何と言い返したのか。どのくらいの力で、何発、相手のどこを殴ったのか。何本吸ったのか。いつどこで買ったのか。その金はどこで手に入れたのか。などなど……。

大切なのは「時間」「場所」「人物」「行動」「出来事」「台詞」の6点である。特に大切なのは台詞だ。「お前馬鹿か」と「お前馬鹿じゃねーのか」は違う。「うるさい!」と「うるせえ、こら!」は違う。このレベルを徹底して詰める。このレベルの違いを蔑ろにせず、僕は「想い出せ」と詰め寄る。このレベルを詰められると、子どもたちはやっとそのときの興奮状態を想い出しながら証言するのではなく、事実を想い出そうと努め始める。興奮状態がだんだん醒めていく。自分のやったことを「メタ認知」しようと努め始める。自分の思い込みの部分と実際に起こったことを分けて考えようという思考が生まれ始める。

複数の人間がかかわっていれば、一人一人、別々に事情を聞く。証言に矛盾があれば、徹底して確認する。「○○はこう言っているけど、お前の勘違いじゃないか。どっちかが嘘を言ってるか勘違いしてるか忘れてるかだと思うんだけど……。」と言いながら、それぞれの証言の矛盾を徹底して詰めていく。普通、こうした作業には1時間程度かかる。複雑な人間関係を伴ういじめ事案などでは3時間くらいかかることもある。

これが終わると、関わった全員を一箇所に集めて、起こった事実を細かく確認する。そして全員に「これで間違いはないか。」と訊く。長い時間をかけて矛盾なくメモされた事実をもとに語っているので、この場で異論が出ることはまずない。そして、多くの場合、この段階で子どもたちはもう「自分が何を勘違いしていたのか」「何が自分の思い込みだったのか」「自分のどこが悪かったか」を自覚している。

教師は「それじゃ。一人ずつ、自分の反省すべき点について言ってみなさい。」と言えばいい。子どもたちは既に観念しているから、ここがこう勘違いで、こういう思い込みでカッとしてしまった、などと事実に基づいて反省の意を述べる。僕は「そうだな。今回は失敗だったな。じゃあ、これから気をつけなくちゃいけないことは何だと思う?」と返す。子どもたちは自分たちの非を改めることを誓う。

こういう流れだ。

子どもたちはだれしも先生に叱られたいとは思っていない。自分には正当性があると信じ込んでいる。重大な勘違いをしている場合もある。そういう状態にある子どもたちに対して、教師の側も思い込みで一方的に「あんたが悪いんでしょ!」とか「なんでそんなことしたの!」とやることが多い。しかし、それでは指導される子どもとメンタリティが一緒である。教師としては恥ずかしいことだ。

僕はよく子どもたちに言われる。「小学校時代には話を聞いてもらえず、一方的に悪者にされることが多かった。中学校にはそれがないから安心できる」と。あまり小学校を批判したくはないが、この点に関しては小学校教師は反省すべきだと感じている。

年度当初に丁寧に事実確認をし、子どもたちが観念させる指導を続けていると、2学期頃にはほとんど生徒指導事案がなくなっていく。何かあったとしても、最初から罪を認め、「こういう事情でこういうことをやってしまいました。」と正直に言うようになる。

嘘をつかれることも隠されることもなくなるから、叱ることに教師のストレスがなくなる。学級運営も学年運営も安定する。教師と子どもたちとの関係も良くなっていく。保護者にも細かく事実を報告できるので信頼を得られる。良いサイクルが生まれる。怒鳴る教師はこうはいかない。

これが僕の生徒指導の基本方針であり、僕の学年運営の基本方針である。

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