孤独に耐えながらもいつも笑っている
教師に必要な資質……。 孤独に耐える力をもつこと。教師の仕事の第一は生徒と良好な関係を築くことではありません。彼らを正しい道へと導くことです。そして第二に、自分の判断した正しさが本当に正
しいかを常に疑い続けることです。それが結果として、生徒との良好な関係を築くことにつながるのです。
多くの教師が孤独に耐えられません。
生徒に嫌われるのに耐えられなくて甘くなったり、保護者のクレームを怖れて事なかれ主義に陥ったり、同僚との軋轢を避けて結果的に自分の学級生徒たちにマイナスになるような納得できない提案を受け入れたり……。すべて「孤独に耐える力」の欠如が原因なのです。
教師たる者、孤独に耐えねばならぬという覚悟が必要です。
教師には生徒や保護者とぶつかったとしても筋を通さねばならないこと があります。人を導くには孤独を噛みしめることも少なくありません。
自分しか知らない、他人に言えない、他人を頼れない、それでも自分で正しいと信じたことを行う、そう判断する。そしてそれを行動に移す。一人で静かに進んでいく。そういうことだって、年に一度や二度はあるのが当然なのです。それがリーダーであり、指導者なのですから。
私の経験から言っても、教師として孤独を噛みしめることなど、年に何度もあることです。自分が良かれと思ってしたことが生徒に理解してもらえなかったとか、自分のとった行動が保護者に理解されなかったとか、自分が良かれと思って練りに練って考えた提案が職員会議で通らなかったとか、人間同士の営みなのですからそんなことはあって当然です。
しかし、大切なのは、それでも生徒たちの前では「笑顔」でいなければならない、ということです。何か苦しいことがあったときに苦しい顔をする、何か腹立たしいことがあったときに苦虫を噛んだ表情をする、何か哀しいことがあったときにそれが表情に出て生徒に気を遣わせてしまう、すべて教師としての職責を果たしているとは言えません。
もちろん、感情を素直に表現したことによって、かえって生徒たちとの関係が好転するということはあり得ます。しかし、そういう例外が存在することは、決して教師としての原則的な姿勢を崩して良いという免罪符にはなりません。私たちはもっと〈教師として在り方〉についてストイックになるべきなのではないでしょうか。
教師という職業は生徒たちに好かれるためにあるわけではないのです。ましてや、自らの自己表現の場であったり、自らの自己実現の場でなどあるはずがありません。教師という職業は、生徒たちを「社会に有用な人間」にするために、そして「将来、自分で生きていくことができる人間」にするために、総じて〈自立した大人〉へと成長させるためにあるのです。学校教育という制度に対して、教師という職業に対して、社会が与えているコンセンサスはそういうことです。もちろん、教職に就いた者が教育実践によって自己表現したり、教育実践を通して自己実現したりすることがありますが、それは生徒たちを〈自立した大人〉に導こうと努力し試行錯誤した結果として、たまたま自己表現や自己実現を果たしているのであって、決して自己表現や自己実現を目的として教育実践したのではありません。後に続く皆さんはこれをはき違えてはなりません。そして、その努力や試行錯誤において、そうした人たちはみな、幾度となく孤独に耐えてきたのです。
もう一つ、強調しておきたいことがあります。それは、孤独に耐えなければならない場面というのが、年齢を重ね地位が上がることによって増えることこそあれ決して減ることはない、ということです。私の経験から言って、ただの学級担任時代よりも学年主任のときのほうが孤独に耐える機会が間違いなく多かったといえます。もしもあなたが、ベテランになったらこの悩みはなくなるのではないかとか、昇進したらこんなにつらい思いをしなくて済むのではないかとか感じているとしたら、それは幻想に過ぎません。私には経験がありませんが、教頭先生や校長先生は私には想像もつかないような質の孤独に耐えているに違いありません。そうした想像力をもつことも、教師として、いいえ社会人として重要なことです。
もしもあなたが、自らが努力し、試行錯誤し、時間と労力を費やした分だけ、生徒たちと心が通じ合い、充実した毎日を送れるのだと夢想しているとしたら、それは自分の中にどこか〈対価〉を求める、〈市場原理〉的な心象があるのではないかと反省すべきです。そのような〈市場原理〉に基づく対価の期待は、教師という仕事と最もかけ離れた期待と言わざるを得ません。
教職の仕事のほとんどは「孤独に耐えること」なのだと言っても過言ではないのです。
では、どうすれば、孤独に耐え、笑顔でいられるのでしょうか。その原理・原則はどういったものなのでしょうか。
正直に言えば、それは私にもわからない……と言わざるを得ません。それがわかれば苦労しないよ……というのが本音です。
ただ私には、効果的な、ある発想法があります。それは私が「明後日(あさつて)の思想」と呼んでいるものです。今日でも明日でもない、常に明後日のことの考えてみる……そういう思想です。
私は主宰している研究会で先生方の悩み事相談会のようなことを年に数回行います。先生方からは実に様々な悩み事が出ます。しかし、どのような悩み事に対しても、私の答えは大筋ではたった一つです。
私はいつも次のように答えることにしています。
まず、5年後の自分を考えてみましょう。5年後も自分は教員として働いています。いまの自分よりは、教師として少しだけ成長しているはず……そんな5年後の自分です。
さあ、その5年後の自分は、いまの自分の苦しみをどう感じているでしょうか。きっとやんちゃな生徒をもったあの苦しみは、保護者の執拗なクレームに悩まされたあの月日は、同僚と上手くいかなくて「やってらんねえよなあ」と感じたあの一年は、いまの自分にとって必要な経験だった、そう感じているのではないでしょうか。
これまでだって、いくつも、「人生の危機」と感じられたことはたくさんあったのではありませんか。ママに叱られたとき、あの娘に振られたとき、大学や教採に落ちたとき、祖父母が亡くなったとき、確かに世界は絶望的に見えました。でも、ちゃんと乗り切ってきたではありませんか。いまの出来事も絶望的だなんて思わないで、5年後の自分が振り返るときの良い経験にしようではありませんか。そう考えて、もう少し頑張ってみませんか……。
それでもダメだ、絶望的だというのであれば、逃げればいいのです。こだわりを捨てて流されてみる、恥も外聞も捨てて逃げてみる、そういうことだって、長い目で見れば経験なのです。だれだって究極的には他人よりも自分が大事です。精神を病んでまで、死にたいと思ってまで、他人に迷惑をかけないことを優先する必要はありません。
精神を病みそうならば休めばいい。死にたいなんて考えるようになったら退職したほうがいい。教職は確かに尊い仕事ですが、精神を病んだり、命を賭けてまでしがみつくべき仕事ではありません。
ここでのポイントは「5年後の自分を考えてみること」です。
まずは鷲田清一先生の次の文章を読んでみましょう。
「激しい苦痛は、ひとを「いま」に閉じ込める。激痛に見舞われているとき、わたしは激痛が消えたあとのことを思って、気を紛らす余裕がない。過ぎ去った昔の思い出に安らかに浸ることもできない二、三分後、二、三分前のことすら考えることもできない。文字どおり、ひとは「いま」に貼りつけられる。」(『「待つ」ということ』鷲田清一・角川選書・平成18年8月)
躰の痛みが例に挙げられていますが、心の痛みも同じです。ひとたびネガティヴな心象に捕らわれてしまうと、人間は「現在(いま)」に縛り付けられてしまい、「いまという瞬間」が過去とも未来とも繋がっている動的なものであることを忘れてしまいます。
比喩的に言えば、「今日」に縛られるのです。どんなに明晰な人でさえ、せいぜい考えられるのは「明日」のこと止まりです。ネガティヴな心象に捕らわれたとき、「今日」を考えたって「明日」を考えたって、このネガティヴな状況から脱することができるとはなかなか思えないものです。それは仕方のないことであり、いわば当たり前のことです。
そこで「明後日(あさって)」なのです。明後日の自分を想定してみる。その想定した明後日の自分から今日の自分を顧みてみる。そういう想像力を一所懸命に働かせてみる。それがいま自分の置かれている状況をメタ認知してみることにつながります。一度やってみるとわかることですが、こうした発想は思いの外自分の気持ちを楽にしてくれるものです。
こうした発想法を私は「明後日(あさつて)の思想」と呼んでいるわけです。
ただし、この語は私のオリジナルではありません。ある年の夏、国語教育関係の学会の前日に、山梨大学の須貝千里先生と二人で酒を酌み交わしていた折、須貝先生の口からふと出た言葉です。須貝先生が何を参考にこの語を用いたのかは私には知る由もありませんが、私は瞬間的に膝を打ち、時間が経つにつれて私の中に浸み入り、遂には私の生き方を規定するような思想として形成されたのでした。
須貝先生にはいくら感謝しても感謝し尽くせません。
最後にこれまでをまとめてこの項を閉じます。私が言いたいのは次のようなことです。
教師に最も大切な資質は「いつも笑っていること」である。しかし、リーダーに最も大切なのは「孤独に耐える力」だ。学級担任もリーダーの一種とすれば、「孤独に耐えながらいつも笑っていること」が何より重要である。そういう覚悟をもたない教師が増えてきたように思う。でも、この覚悟をもたないと立ちゆかない。
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