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教材の考察

「教材研究」という言葉があります。この言葉は教師にとって、或いは学校教育界にとって非常に大切な言葉だと思うのですが、最近は手垢がついてしまって非常に軽い言葉となりつつあります。

もともと「教材研究」という言葉は三つの研究の複合体としてのイメージをもつ言葉でした。①教材とするための素材自体の研究、②学習者の実態の研究、③素材と学習者とを結びつけるための学習活動の研究の三つです。それぞれ、「素材研究」「学習者研究」「指導法研究」と言い換えて良いでしょう。

「素材研究」は教材として扱う素材を、子どもに与えるものとしてではなく、その素材自体の価値は何かと研究することです。わかりやすく言えば、国語で「ごんぎつね」の教材研究をするという場合に、教材としての「ごんぎつね」ではなく、「ごんぎつね」という作品の文学的価値を研究することにあたります。道徳授業であれば、教科書教材の本文を分析したり鑑賞したりすることになるでしょうか。

「学習者研究」とは子ともたちがその素材を受け止めるうえで、どのような障害があるかを中心に考えることになります。文章のすべての漢字を読めるかに始まり、どのような語彙に欠落が見られ、どのような勘違いをする可能性があり、時代の差異や地域の差異によって文章世界とどのような齟齬を来す可能性があるのか、或いはどのような解釈傾向が見られると予想されるか、解釈はどのような幾つの派に分かれると予想されるか、こういったさまざまな可能性を検討することを指します。これらを検討するには当然のことながら、教師がその「素材自体」をディテールまでよく理解していることが前提となります。「学習者研究」が「素材研究」を前提とすると言われる所以です。

「指導法研究」とは「素材研究」と「学習者研究」とを前提に、両者の結節点を紡ぎ出すような学習活動や指導言を開発することを指します。ここでは授業の構成や発問、子どもたちの意見の対立や融合、ゴールをどこに設定するかなどが大きく意識されることになります。

人によって「素材研究」に大きく重きを置く人や「学習者研究」を大きく意識する人、多様な指導法の開発に余念なく「指導法研究」に中心的に取り組む人などその重点に違いはありましたが、かつてはだれもがこの三つがセットでないと「教材研究」の名に値しないということでは一致していました。

ところが昨今は、国語科でさえ「素材研究」が蔑ろにされ、「素材」が研究されていないものですから「学習者研究」も機能しないという状況があります。「学習者研究」は「素材」との関係によってなされるものですから、「素材研究」なき「学習者研究」は教師が子どもたちを観察しての思いつき程度のものになりがちです。「素材研究」がなされず「学習者研究」も未熟となれば、「指導法研究」が機能するはずもありません。教師の恣意性によって「おもしろそうな活動」が選択されるだけということになります。道徳教材はその性質上、国語科の教材よりも読み取りやすい教材が並んでいますから、国語科以上にこの傾向が強まります。

「教材研究」に似た言葉に「教材分析」という言葉がありますが、ここには教材というものに授業の指標となるような客観的な読み方があって、それを明らかにすることで授業が成立するようになるというニュアンスがあります。国語科の「分析批評」に象徴されるように、おそらく「新批評(=ニュークリティシズム)」をモデルとした一部のテクスト論の影響でしょうが、「教材分析」信奉者の授業は多様な解釈可能性を認めない硬直化した授業になりがちです。これも道徳の授業づくりには向かないでしょう。

「教材開発」という語に至っては、授業構成上の「教具づくり」と同義に捉えている教師さえいて、呆れるばかりです。教具をつくることが大切でないとは言いませんが、さすがに「教材開発」を「教具開発」と同義に捉えるのは矮小化しすぎでしょう。

個人的な話で恐縮ですが、私は「教材研究」という言葉に手垢がつき、別の意味、軽い意味で捉えられていると感じるようになって以来、「教材を考察する」という言い方をするようになりました。「考察」とは、物事を明らかにするためによく調べて考えをめぐらすこと(goo辞書他)を指しますから、素材としても教材としても先行研究について調べること、それをもとに自分自身の頭で考えをめぐらすことを前提としています。しかも「研究」という言葉よりも、もっと自分自身で主体性をもった結論を導き出すというニュアンスも感じられます。私が好んでこの言葉を使う所以です。

教科書教材を扱うにしても自主開発教材を扱うにしても、道徳の授業づくりではよく調べ、自分自身で考えをめぐらし、自分自身で主体性をもっての結論を導き出すことが必要です。それを〈当事者意識〉と呼ぶのであり、こうした〈当事者性〉をもたない授業は前節で述べたとおり機能性の低い授業にならざるを得ないのです。

「教材を考察する」とは、①「素材」としての価値を明らかにし、②素材を鏡にしながら「学習者」の姿を映し出すことであり、③素材と学習者の結節点紡ぐ「指導法」を開発することであり、④それらを関係づけて自分自身の言葉で表現することでもあります。教材の外にあるものをもってきてちょっと加工したりちょっと工夫したりして授業化できるものではありません。そこには教師自身の「自分」が必要とされるのです。

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