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ニッパチの指導力

教師が必ず身につけなくてはならない〈スキル〉があります。それは私が〈ニッパチの指導力〉と呼んでいるものです。なにが「ニッパチ」なのか。いま教師が〈話し方スキル〉を身につけなければならないと言ったばかりですが、〈話すこと〉と表裏一体なのは〈聞くこと〉です。そうです。指導をする場合には、それも特に個別指導をする場合には、〈話すこと〉と〈聞くこと〉とのバランスを二対八の割合にとることが必要なのです。

一般に教師は〈話すこと〉を職業としていますから、話し好きの人が多い傾向にあります。子どもを別室に呼んで事情を聞いたり相談を受けたりといった場合にも、子どもの話をちょっと聞いただけで自分の考え方を滔々と語り出す、という人が少なくありません。しかし、この手の教師からは子どもたちは次第に引いていきます。人間関係がだんだん遠くなっていってしまいます。あの先生に相談してもわかってもらえない……と思われてしまうからです。

子どもの個別指導場面においてまず大切なのは、教師が時間感覚を捨てることです。たとえ一時間後に会議が始まるとか、一時間後に外勤に出なければならないということあったとしても、個別指導が始まったら「場合によっては遅れるかも」という覚悟を決めることです。子どもは多くの場合、自分の言いたいこと、言うべきことが整理されているわけではありません。たどたどしく、あっちに言ったりこっちに来たりといった話し方をすることも少なくありません。少なくないというよりはほとんどがそうだと言って良いでしょう。それを急かしたり、強引に話を遮ったり、教師の言葉で抽象化したりしたのでは、子どもの側は先生に話を聞いてもらったと思えません。個別指導というのは、子どもが話したいだけ話したら実は九九パーセント成功しているとさえ言えるのです。

事情を話す。気持ちを話す。相談をする。子どもが教師に求めているのは適切な助言でもなければ的確な意見でもありません。子どもが欲しているのは「先生の時間をきみにあげるよ。心配しなくていいよ。時間がかかってもいいから言ってごらん」という態度なのです。ちなみにこれは、相手が保護者でも変わらない構造です。

もしもあなたが、自分は子どもの話をよく聞いてあげているという自信をもっているならば、一度、個別指導場面を録音してみることをお勧めします。そうとうちゃんと聞いたなという場合でも、教師の言葉が五割を超えているのが常です。実は教師というのは、自分では意識していませんが、そのくらいよくしゃべっているのです。

授業においても同様の構図があります。国語や道徳の時間に、子どもたちに「自由に意見を発表しなさい」という場合があります。学級全体の話し合いでも小集団交流でも構いません。そう言っておきながら、子どもたちの発言が教師の意にそぐわないものであると、すぐに出て行って「それはかくかくしかじかだから、いまは置いておこう」とか、「それはかくかくしかじかだね。先生が話して欲しいのはこうこうこういうことなんだよ」などと口をはさみがちです。子どもたちの発想がなかなか本質に届かない場合には、教師が焦って割り込んでしまうということもありがちです。授業も録音してみると、それがよくわかります。

授業では、教えなければならないことは確かに徹底して教えなければなりませんが、子どもたちに交流させようとした場合にはできるだけ教師が割り込むことなく、子どもたちの「実活動時間」を保証しなければならないのです。そしてその目処が八割なのです。十五分の話し合い活動なら十二分、三十分の話し合い活動なら二十五時間近くは教師は黙って聞いているべきなのです。

「実活動時間」という考え方は体育の授業を例にするとわかりやすいでしょう。教師が授業時間の半分を説明に使い、子どもたちが活動する時間が半分しかないという体育の授業があり得るでしょうか。そのナンセンス性と構造は同じなのです。

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