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子どもたちの未来を想像し続ける

ちょっと古い原稿ですが…。

国立社会保障・人口問題研究所によれば、二○六○年の日本の人口は八六○○万人、うち三五○○万人が六十五歳以上の高齢者になると推計されています。現在は二○一○年のデータで総人口が一億二八○五万六千人、高齢者が二九四八万四千人ですから、パーセンテージ比較すると高齢者は現在の二三・○パーセントから四○・七パーセントまで上昇することになります。二○六○年の六十五歳は二○一五年に二十歳の人たちです。現在の若者たちが高齢者となったとき、この国はいったいどうなっているんだろう、現時点ではだれも想像ができません。ただ一つ言えるのは、いま私たちが接している子どもたちは更に若いわけですから、この比率よりも更に厳しい時代を生きていくのだろうということです。

出生率は現在一・四前後を推移していますが、二○○五年に底と言われた一・二六からそれほど上昇しているわけではありません。日本の人口が急激に増加していた戦後間もなくの出生率が四・五程度だったことを考えると、その差には愕然とさせられます。

一九九○年代に生まれた人たちは、男性の三人に一人、女性の四人に一人が生涯独身になると予測されています。そのうえ、結婚したカップルのうち三組にひと組は離婚するとも言われています。これもいま私たちが接している子どもたちは更に若いわけですから、この比率よりも更に厳しい時代を生きていくのだろうということが言えるでしょう。

単身世帯が多くなればなるほど、人は自分の将来に不安を抱かざるを得ません。離婚が増えれば増えるほど、女性を中心に満足の行く収入が突然得られるなくなるという可能性が増します。私は毎日中学生の子どもたちと接しながら、この子たちはどんな人生を歩むのだろう……とこの子たちの未来に思いを馳せます。私たちだって年金や社会保障に関する政策に一喜一憂しているわけですが、どう考えてもこの子たちは私たちなんかよりもずっと厳しい時代を生きていくこになりそうです。

こんなことを考えていると、たった三年間、一三歳から十五歳という三年間に私がこの子たちにしてあげられることは何なのだろう、この子たちの人生に一番必要なものは何なのだろう、せめてその一番必要なものの育成に寄与する教師でありたいのだが……とそんなふうに願うのです。気持ちだけが焦り、具体的なものは見えないのですけれど。

例えば、現在、学力向上が叫ばれているわけですが、中学入試や高校入試に出題されるような試験学力を高めることは、子どもたちの人生をよりよいものにするためにどのように機能するのでしょうか。もしもそれ以上に彼らの人生にとって必要とされるものがあるのだとすれば、やはりそちらを身につける教育に大きくシフトすべきなのではないかと思われてきます。少なくとも昭和的な「出世双六」のような人生を想定しながら、良い高校・良い大学・良い会社という言い方で子どもたちに接することはナンセンスでしょう。

例えば、昔から子どもたちに夢をもたせたいとだれもが思います。しかし、大きな夢をもつことによって、結果的に多くの子どもたちが不安定な仕事に就き不安定な生活を送るのだとすれば、教師はそれに替わるメッセージを投げ掛ける必要があるのかもしれません。

内田樹がおもしろいことを言っています。これからの世の中は「身の程を知る」ことがとても大切だと。「身の程を知る」ということは「手持ちの資源でなにができるかをやりくりすること」であり、たとえて言うなら、キャベツともやしがあるから野菜炒めをつくれると考えるのが「身の程を知る人」であり、キャベツともやししかなくて豚肉がないから肉野菜炒めをつくれないと渋面をつくるのが「身の程を知らない人」であると(『街場の共同体論』潮出版社)。「身の程を知る」という言い方をすればイメージが悪くなりますが、自分の現状にある資源から工夫しようとする人と、自分の現在にないものに思いを馳せて渋面をつくる人と、どちらが幸せなのかは明かです。私たちは目の前にいる子どもたちをキャベツともやしで工夫する人に育てたいのであって、豚肉の不在を嘆く人に育てたいわけではないはずです。私は教職を続けるということはこんなことをいつも考えながら毎日を過ごしていくことなのではないか、そんなふうに思うのです。

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