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浄化と内省

リフレクション。一般に「内省」と訳され、AL授業に不可欠とされる学習プロセスです。しかし、勘違いしていただきたくないのは、〈リフレクション〉は何もAL授業でのみ機能する学習プロセスではない、ということです。AL授業に限らず、一斉授業であろうと講義型授業であろうと、〈リフレクション〉は機能します。その授業が活動的であったか受動的であったか、学習形態が講義形式であったか発問指示型であったか調べ学習であったか小集団交流であったか、そうした授業の現象的な側面と、〈リフレクション〉が機能するか否かは実は関係がありません。

私はALを「活動」概念ではなく、「機能」概念であると方々で主張しています。本書でも何度も繰り返してきました。

AL授業は確かに子どもたちが活発に議論したり交流したりします。子どもたちのそのような姿を見て、教師が一人、自己満悦することもしばしばです。しかし、実はAL授業と銘打って子どもたちの現象的な活発さをつくることは実はそれほど難しいことではありません。休み時間の子どもたちの姿を見ればそれは明らかです。子どもたちは教師が特に腐心しなくても、休み時間には嬉々としておしゃべりに花を咲かすものなのです。しかし多くの場合、そこには「学び」がない。休み時間の彼らの姿は「主体的」であり「対話的」ではありますが、「深い学び」にはなっていないのです。

実はAL型授業に必要とされる「活発さ」は決して現象的な活発さではありません。その機能性、つまりは「学びとしての機能」が活性化することなのです。

皆さんは〈カタルシス〉という言葉をご存知だと思います。一般に「浄化」、或いは「浄化作用」と訳されます。悲恋映画を見て涙があふれ、その涙を流したことで気持ちがスッキリする。暴走族がバイクを猛スピードでぶっ飛ばしてスカッとする。夏休みに海外旅行に出かけてワクワクした非日常を過ごし、日常気分の膿を出して「また頑張ろう」と思う。こうした「スッキリ」や「スカッ」や「ワクワク」にあたるのが「浄化作用」、つまり〈カタルシス〉です。

実は一般にAL授業の典型と目されている小集団交流やワークショップ、ファシリテーション型授業には、必然的に、ここで言う「スッキリ」や「スカッ」や「ワクワク」にあたるような〈カタルシス機能〉をもつことが多いのです。少々口悪く言えば、日常的な一斉授業に比べれば放っておいても〈カタルシス〉で溢れます。

しかし、それは決して「学び」でもなければ「発見」でもありません。ましてや「ブレイクスルー」でなどあるはずがありません。もちろん、涙を流すとスッキリするという自己理解はできるかもしれません。スカッとすると日常が生き生きすることも学べるかもしれません。非日常空間で楽しむことで精神が浄化され、その後一定期間頑張れるということも学べるでしょう。しかしそれを学んだとして、毎日悲恋映画を見続けるのでしょうか。毎晩バイクを飛ばすのでしょうか。海外旅行だって年に一度か二度しか行けないから非日常なのではないでしょうか。年に十二回行ったら一回一回のワクワク感は薄れてしまうに違いありません。毎月海外旅行に行ってしまったら、海外旅行が「非日常」ではなく「日常」になってしまうのだから当然のことです。

そして多くのAL型と称される授業において成立している現象的な活発さは、「学び」や「発見」や「ブレイクスルー」という機能ではなく、〈カタルシス〉という機能しか果たしていないのです。〈カタルシス機能〉を振り返っても、子どもたちからは「友達とたくさん話せて楽しかったです」とか「いっぱいいろんな意見を聞けてなるほどと思いました」とかいった空虚な言葉が出てくるのが関の山です。そしてそれは、実は「映画見ていっぱい泣いちゃって、ほんとスッキリしたの……」とか、「バイクぶっ飛ばしてめっちゃスカッとしたぜ!」とか、「ハワイで綺麗な景色見て、おいしいものいっぱい食べて、ほんとリフレッシュした!」とかいった言葉と同質のものに過ぎないのです。もちろんこれはこれで悪いことではありません。しかしあなたは、こうした思いに「内省」という言葉を与えられるでしょうか。違和感を抱かないでしょうか。

この違和感、つまり現象的な活発さに潜む〈カタルシス機能〉と〈リフレクション機能〉とのズレを感じる感性こそが実は教師にとって本質的な問題なのです。そして「浄化」のみならず、「内省」が自然発生的に生じるような「深い学び」「新たな発見」「ブレイクスルー」といった機能をAL授業でどのように成立させるか、そうした厳しい目を自らの授業に向けることが大切なのだろうと思うのです。

しかし、もちろんすべての授業において「内省」が自発的に生まれるような機能を成立させるのは至難の業です。「至難の業」と言うよりも「ほぼ不可能」と言った方が良いでしょう。それはもしかしたら、神の領域でさえあるのかもしれません。しかし、それが「神の領域」だからと諦めてしまうことと、「神の領域」と知りつつ方向性として常に意識し続けるのとでは、授業実践の質に雲泥の差が生まれます。私たちはこの「雲泥の差」において「雲」をつかもうとし続けなければならないのです。そうでないと、「AL授業の最後はリフレクションね」と形骸化した〈リフレクション活動〉を続けることになったり、ほんとうは〈カタルシス機能〉しか果たしていないのに「子どもたちが盛り上がったからリフレクションが成立している」といった勘違いに陥ってしまいかねないのです。

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