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ただ受け止め、ただ引き受ける


親父が亡くなる一年二か月ほど前のことです。両親と私と妹と、四人で温泉に行きました。定山渓温泉といって札幌の中心部から四十分ほどのところ。一泊二日でした。「これから毎年行こうね」と言っていましたが、それが家族四人の最後の旅行になりました。

親父が亡くなる二か月前のことです。両親と私と妹と、四人でジンギスカン鍋を囲みました。両親が一緒に入っている介護施設の敬老会というイベントでのことでした。「これから毎年食べようね」と言っていましたが、それが家族四人の最後の食事になりました。

親父が逝ったのは2013年11月25日、月曜日の17時03分のことでした。それまでの荒かった呼吸がスーッと消えて行きました。とても静かな時間でした。私は前日まで熊本に講演に行っていました。眠い目をこすりながら授業をしていたら、午前中に容態急変の電話がありました。親父は私の帰りを待っていたのだなと感じました。

親父が脳梗塞で倒れたのは2011年8月末のことでした。ちょうどお袋が8月初旬から札幌で入院していて、親父は一日置きに40分ほど高速を飛ばして見舞っていました。親父が倒れたのはお袋が退院して六日目のことでした。もしも親父の脳梗塞が一週間ほど早くてお袋の入院中であったならば、親父は救急車さえ呼んでもらえずそのまま亡くなっていたことでしょう。「運が良かったね」というのが私たち家族の合い言葉でした。

しかし、それからが大変でした。お袋はそれから毎日、75を超えているというのに車を飛ばして病院に通う毎日。使命感からか親父のもとに通うことは怠らないのですが、毎晩家に戻ってからは一人でボーッとしていたようで、少しずつ認知症が進んでいきました。親父が四ヶ月間の入院加療から退院したあと、この老夫婦が二人だけで暮らすことはやはり無理でした。それから一年数ヶ月、私と妹が相談して両親ともに同じ施設に入れるまでいろんなことがありました。

ほんとうにいろんなことです。

この間の良い想い出は定山渓温泉だけなのでした。仕事もままなりませんでした。三日連続で欠勤した後に、授業をすべて午前中にしてもらって午後は一週間連続でまるごといない、なんていうこともありました。親父はかつて公務員でした。社会保障としてはかなり恵まれています。しかし、国がどれだけ社会保障を充実させていても、細かいところでどうしようもないことが次々に起こります。間違いなくこの程度で済むのは恵まれているのだと頭ではわかっているのですが、やはりそんなふうに考えるのは無理でした。幸い、当時の校長も教頭も、僕のお世話になっている家庭科の先生も同じ学年の数学の先生も要介護の親を抱えていましたから、私は有り難い配慮を次々にしてもらえました。

結局、2013年の3月、両親が施設に入り、そのいろんなことのほとんどが解決しました。私と妹はほっとしました。もう親父の「死にたい」という言葉を聞かなくていいのだ、もう私がお袋を怒鳴ったりしなくていいのだ、そんなことを想って脱力しました。親父が逝ったのはそれから半年後のことでした。

いまではその施設にお袋が一人でお世話になっています。もうすっかり慣れたようで、いまのところ何一つ問題の起こらない日々が続いています。私は月に二度ほどお袋のもとに顔を出しますが、施設の次の行事を楽しみにしている様子です。隣り合って設置されていたかつて親父の入っていた部屋には、もう別の人が入居しています。私はその部屋の権利を買いたいくらいに想うことがありますが、そうもいきません。

実家にはまだ親父の洋服も親父の寝ていた介護用のベッドもそのままにしてあります。家にはまだ親父の匂いがはっきりと残っていて、私はたまにモノクロの親父の青春期のアルバムを眺めながらそこでひと晩を過ごすことがあります。そんなことをしていると、実家ではときたま親父の気配を感じることがあります。もしかしたらまだいるのかもしれません。もうお袋も住んでいないあの部屋に。

こういう文章を書いていると、知らないうちに涙がこぼれてきます。人間とはそういうものです。そしてこういう世界が四十代にとってはもうすぐそこまで来ているのです。

しかし、これはおそらく、人間にとって必要な経験なのです。私はあの時間を尊いものだったと思いますし、あの時間が愛惜しいものであったとも思います。お袋が逝くときにはもう少しイライラせずに、脇目を振ることなく自分のすべての時間をお袋に渡そうと決意しています。

親父とお袋を見ていると、人が必要以上に自分の人生に意味を見出そうとすることの不毛性に気づかされます。最低限のお金は必要ですが、それ以上のお金で買えるような物事を人は最終的には欲しがらなくなるということもわかってきます。旨いものも旨い酒も欲しがらなくなります。静かなありふれた時間とゆるやかでおだやかな安心だけを求めるようになります。それだけでいいと思うようになるようです。

人が年齢を重ねるとともに他人に対して優しくなっていくのはこういうことなのだろうと思います。本書でも四十代が目指すのは成熟であると繰り返してきましたが、成熟は本や議論によっては得られません。いま目の前にあることをただ受け止めただ引き受けるしかない、それ以外にあり得ない、そんな経験だけが人を成熟に向かわせるのです。

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